紅茶をどうぞ
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[祭] 焦る (付きまとう焦燥感) 前編
その日イギリスはとてもついていなかった。
机の上に積み重なる書類の山。鳴り止まない電話に緊迫感漂うニュースの数々。
いつもとは違った、何故か突発的な仕事がこれでもかというほど舞い込んで来て、朝からずっと追われていた。
しかも悪いことというものは重なるようで、忙しくて手を離せない時に限って滅多に来ないアメリカからのメールを誤って削除してしまい、なんとも遣る瀬無い気分に陥りながら慌てて折り返しの謝罪メールを入れれば、実に下らないメールが再送されて来たり。(ちなみにそれは「俺の家の近くに新しくマクドナルドが出来たんだぞ!」だった)
気分転換に紅茶を淹れようとすればお気に入りの茶葉はなく、そう言えば昨夜飲んだのが最後だったことに気付いてうなだれ、疲労回復にと甘いものを求めても、こちらも今朝妖精たちに残り全部をあげてしまってボックスの中身は空。机の引き出しを探しても飴玉ひとつ見付からなかった。
とりあえず一段楽したところで食事のため外に出ようとしたら、バケツをひっくり返したような大雨でうんざりさせられたし、デリバリを頼めば事故に巻き込まれた店員から三十分の遅刻を言い渡された。
この際なんでもいいからと朝食用のオレンジジュースを持って仕事場に戻れば、疲れきっていたためか絨毯の襞に足を取られ、豪快に床へとダイブしてしまう。そして最悪なことにオレンジジュースは宙を舞い、さきほど仕上げたばかりの書類の上に容赦なく降り注ぐという、実に悪夢のような現実が繰り広げられた。
一人むなしく布巾で汚れた箇所を拭いながら、イギリスは重い溜息をこぼして今夜は浴びるほど酒を飲んでフテ寝してやると心に誓う。
そうだ、こんな日はあれこれ考えずに泥酔して記憶を飛ばしてしまった方が、きっとずっといいに違いない。イライラも切なさも全て忘れて飲みまくろう、そう思ってサイドボードに近寄れば酒瓶は見当たらず、ワインセラーにもハーフボトルが一本、申し訳ない程度に入っているのみだ。
あぁ、そう言えば週末フランスと飲み明かした時に根こそぎいったんだっけな……そんなことをぼんやりと思い出し、一瞬茫然としたのちついに彼は叫び声を上げた。
―――― こんなのはあんまりだ!
そうして腹立ちまぎれに放り投げた布巾が花瓶にあたり、さらなる被害を広げたことは特筆すべき事項であろうか。
アメリカがその日ロンドンに到着したのは、日も暮れた夜の七時過ぎのことだった。
雨が上がったばかりなのだろう、街のあちこちにまだ水の匂いが残っている。
イギリスという国はいつ来ても緑と水の気配に包まれていて、時にすがすがしく、また時に鬱陶しく感じられるのが特徴的だ。それは懐かしい記憶をアメリカにもたらすこともあったし、忘れたい思い出を呼び覚ます時もあったが、そのどれもが今はなくてはならないものだと感じている。
彼の家のドアをノックするのは実に馴染んだ行動だった。それだけ自分がここへ来ているんだなぁと思えばなんだか少し気恥ずかしさを感じる。
幼い頃は彼の来訪を心待ちにしているだけだったが、今ではこうして自らの足で彼のもとへ来ることが出来るのだ。とりもなおさずそれだけ自分は大きくなったのだし、イギリスとの関係も深くより親密になったことを示していた。
それが素直に嬉しい。
本人を目の前にしてはなかなかそんな気持ちは出せなかったが、アメリカは今ここにいる自分が幸せであることを実感している。
「イギリス?」
ノックに続いてドアベルを鳴らしながら、いつもならすぐに出て来てくれるであろうこの家の主人が、なかなか足音を響かせないことに首をかしげて、アメリカは腕時計で時刻を確かめた。まだ寝るには早すぎる時間だ。
ここへ来る前に空港からパソコンにメールを入れた時は、すぐに返信が合ったので在宅していることは間違いない。急用が入って外出したとも考えられるが、今日は一日仕事に追われて忙しいというようなことが書かれてあったので、可能性としてはだいぶ低かった。
ためしに電話を掛けて見るが出る気配もない。
気分転換にシャワーでも浴びているのだろうかと思いながら、庭へ移動し裏手の方へと回ってみる。二階にある執務室の窓を見上げれば明かりが煌々とついているのが確認出来た。
やっぱりいるんじゃないかと唇を尖らせ、おーいと呼んでみても返事はなく、こうなったらあとは行動あるのみだった。
アメリカは玄関前に戻ると合鍵を取り出して施錠を解いた。さすがに家主が居るのに許可なく家に入るのはためらわれていたが、この場合話は別である。
キィ、と軋んだ音を立てて開かれたドアの先、暗い廊下に足を進めると勝手知ったるなんとかで、アメリカはずんずん奥へと入っていった。
「イギリスー? いるんだろう?」
二階に続く階段を上がりながら声を掛けて見る。気配に敏い彼がやすやすと侵入を許すはずもないのだが、ここまで来ても反応がないとなると、少しだけ不審に思ってしまう。
執務室の前にたどりつけば薄く開いた扉から細い明かりがもれていて、やはり彼はここにいるはずだと確信した。
「イギリス、俺だよ。入ってもいい?」
仕事部屋に無断で立ち入らないことは、最低限のマナーだ。『国』である自分たちは守らなければならない国家機密を取り扱うこともあるし、重要な来客の可能性もある。
だが、耳を澄ませても物音ひとつ聞こえてこないので客の心配はなさそうだったが、それにしても不気味なぐらい静まり返っているのがいかにも不自然だった。
「……失礼するよ」
もう一度声を掛けてからドアノブに手を掛ける。そしてゆっくりと引けば眩しい電光に一瞬だけ目が眩んだ。
瞬きをし、そのままずかずかと室内に入り込むものの、見まわしても人影はなくイギリスの姿はどこにも見当たらなかった。こんなことは初めてである。
「イギリス?」
トイレにでも行ったのか? それとも何か足りないものがあって急に買い物に出たのか? そう思いながらもなんとなく違和感を感じてアメリカはソファの近くまで歩み寄ってみた。
柔らかな革張りのもので、落ち着いた色合いがなんとも言えないイギリス一番のお気に入りだ。仕事の合間によくここで彼は紅茶を飲み、本を読んだりしているのを何度も見かけたことがある。
そんなソファだったが、今は誰もおらず、ただ静かにそこに置かれているだけだ。
ふとテーブルに置かれた空っぽのグラスを見つけ、アメリカはなんとはなしに手に取った。オレンジジュースが入っていたのか柑橘系の甘い香りと、糖分のベタつきが指先に感じられる。汚れたグラスを置きっぱなしにするなど随分イギリスらしくない行為だと訝しみ、そのまま今度は正面にある大きな樫の木で造られた重厚な机の方へと歩みを進めた。
そこでアメリカは目に飛び込んできた思いもかけない光景に、知らずぎゅっと眉間に皺を刻んだ。
いつもデスクの片隅に置かれている一輪挿しが倒れ、中の水がこぼれて卓上に広がり、瑞々しい薔薇が無残にずぶ濡れになっていた。
何が起きたのか分からずに視線を移していけば、すぐ近くにはオレンジ色に染まった布巾が無造作に落ちていて、余計に頭が混乱するばかりである。
一体これはどうしたわけか。花瓶はイギリスが倒したのだろうか? それならば何故彼の姿が見当たらない?
こんな惨状をあのイギリスが放っておくとはとても思えなかった。
「イギリス!」
手にしたグラスを置いてもう一度、今度は怒鳴るように名前を呼ぶ。家中に響くような大音量だ。
だが、しんと静まり返った室内に自らの声が木霊するだけでいらえはない。
何度か繰り返し呼んでもそれは変わらず、アメリカは唇を噛み締めると携帯電話を取り出してイギリスのそれにかけてみた。
すぐに聞きなれた電子音楽が耳に付く。
はっとして音の出所を探してみれば、彼の携帯電話は窓際に置かれたバッグの中にあるようだった。
悪いとは思ったが遠慮なく開けてみると、そこには携帯電話をはじめ財布や手帳、キーケースに筆記具、エチケット用品等が丁寧にしまわれている。どれもアメリカが何度も目にしたことのある彼の愛用品の数々だ。
とてもこららを置いてイギリスが外出するとは考えられなかった。
何かがおかしい……そう思った瞬間、弾かれたようにアメリカは部屋を飛び出した。そして次々と家中のドアを開けて中を確認し、イギリスの姿を探しまわった。
トイレにはいない。シャワールームも空っぽ。ベットルームにもいない、客間も同じだ。
階下に駆け降りてリビングとキッチンを見ても人影はなく、応接間を覗き、倉庫を探してもイギリスはどこにもいなかった。
あと考えられるのは庭だが、灯りひとつついていない暗闇の中にいるとは考えられないし、一応温室の方へ走ってみてもその気配はまるでなし。
街へ出てしまったのだろうかと思いながらも、やはり執務室の倒れた花瓶が気になってその考えは打ち消した。
どんなに急ぎの事情があっても、あのイギリスが大切な薔薇を倒れたままにしておくはずがない。絶対に、ない。
「イギリス……」
途方に暮れたような顔でアメリカは彼の名を呟き、暗がりの中でどうしたらいいのかを考えていた。
投げつけた布巾によってガツ、と音がして倒れた花瓶は、容赦なく机の上に水たまりを広げていった。当然そこに飾られていた薔薇の花は重力に従ってはらりと花弁を散らす。
イギリスはなんだか泣き出しそうな顔でその惨劇を見つめていたが、やがて片づける気力も失せてゆるゆるとその場に膝をついてしまった。
『イギリス大丈夫?』
「あ、あぁ……」
妖精たちの慰めの言葉も今はなんとなく虚しく感じられ、これは随分と参っているなぁと自分でも感じられた。
根をつめて仕事をするのも、忙しく立ち回るのも基本的に嫌いではない。むしろ充実した時間を送ることが出来るので、余裕さえあれば願ったりかなったりなのだ。
だが今日はとにかく重なりすぎる。しかもマイナス方面によりいっそう傾いているのが最悪だ。いろいろとストレスが溜まっていた矢先だったので、余計に精神的にくるものがあった。
「今日はもう休もう……」
呟いてよろよろと立ちあがると、倒れた可哀相な薔薇も目に入らないままイギリスは寝室へ向かおうと踵を返した。
そこへ妖精の一人がふわりと鼻先に飛んできて、実に可愛らしい笑顔を見せる。
『いい夢が見られますように!』
彼女はそう言って手にした小さなステッキ(ブリタニアエンジェルが持つそれと酷似している)を振って、祝福の言葉と共に光り輝く魔法をかけてきた。
突然のことに目を丸くしてイギリスはその光を思いきり浴び、なにがなんだかよく分からないまま瞬きを繰り返した。
「……?」
さっと身体に何か異変が起きたような気がしたが、違和感は一瞬だけですぐに元に戻る。
なんだろうと首を捻りながらとにかく妖精にありがとう、と声を掛けて歩き出そうとして ―――― 廊下に人の気配を感じて足を止めた。
今日は予定はなかったはずだ。こんな時間に誰だろう、そう思いながらイギリスは忌々しげに舌打ちをした。
折角これから休もうと思っていたのに、今日は本当になんてタイミングの悪い最悪な日なんだ! いったい俺が何をした! と憤慨しつつもふいに気付いて息を呑む。
良く考えれば家の中に人の気配があるのはおかしい。まさか泥棒でも入ったのかと思って警戒心もあらわに耳を澄ませていると、続いて良く通る声が聞こえて来た。
「イギリスー? いるんだろう?」
アメリカだ。約束した覚えはなくても彼なら突然やって来ることは珍しくない。部屋の明かりを確認して合鍵で入って来たのだろう。
まったく前もって連絡を入れろといつもあれほど注意しているというのに、いつになったらきちんとした振る舞いが出来るのだろうか。
口煩く言いたくはないが改めないアメリカが悪い。子供の頃に甘やかしたツケが回って来てしまったのだろうかと、当時の自分を棚上げしながら戸口の方を見やれば、珍しく室内を伺う気配が感じられた。
「アメリカ? 入ってこいよ」
声をかけるがしばらく返事はなく、続いて「イギリス、俺だよ。入ってもいい?」と聞かれた。
普段なら許可をすればすぐにでもバーンとドアを勢い良く開けて飛び込んでくると言うのに、いったいどういう風の吹き回しだろう。
なんだか噛み合わないものを感じ、奇妙な雰囲気を不審に思いながらも「ああ、いいぞ」と答えれば「……失礼するよ」と、これまた不似合いな言葉と共に恐る恐るドアが開かれた。
隙間からひょこりとアメリカが顔を出す。
「なんだよ、今日は随分大人しいんだな」
言いながら、イギリスは疲れたように吐息をついて、革張りのソファに腰を下した。どうも身体がいつも以上にだるくて、なんだか立っているのも辛くて仕方がない。
柔らかなそれに深く体を沈めれば、全身に鉛のような重さを感じて身を起こすのも億劫になってしまう。これは本格的に休息しないと駄目だなと思いつつ、室内に入り込んで来たアメリカを見上げて……戸惑った。
アメリカはきょろきょろと室内を見回すように首をめぐらし、それから何かを探すように部屋の中央で立ち止まった。すぐ脇のソファに座るイギリスの方などまるで見向きもしない。
「アメリカ?」
怪訝そうに呼びかけても彼は声が聞こえないかのように、難しい顔をしたまま唇に指先を当てて考え込んでいる。
「イギリス?」
名前を呼ばれた。「なんだよ?」、と返事をしてもアメリカはこちらを向かない。視線はさまようように揺れ、そのまま彼はテーブルの上に置かれたグラスに目を落とした。
さきほどイギリスがオレンジジュースをぶちまけてしまったせいで、中身は空っぽである。それを何故か手に取り、ためつすがめつ眺め遣りながら、アメリカはそのまま執務用のデスクへと歩みを進めた。
「おい、なんだよ。勝手にいじるなよ」
イギリスが声を掛けてもアメリカは無視をしたまま、何事か考え込むような顔をして黙りこんでいる。
そんな彼が倒れた花瓶と薔薇の花を目にした瞬間、明かな動揺とともに鋭い声で「イギリス!」と叫んだので、あわててイギリスはその背に声を掛けるのだった。
「さっき倒しちまって。あとで片づけるから放っておいてくれ」
アメリカは不信感いっぱいの顔付きで唇を噛み、無言で机の上に広がる水たまりを睨みつけていた。
どうせ、まさかあのイギリスが片付けを怠るなんて、とそんなふうに思っているのだろう。確かにそのままにしておくのは自分らしくないし、日頃口煩く片付けを推奨している身としては弁解の余地はない。
でも今はどうにも身体が重くて立ち上がる気力すらなかった。
さきほどから……そう、アメリカがこの部屋に入って来た時から、耐えがたい眠気に襲われて、気を抜くとすぐにでも意識が落ちてしまいそうなほどなのだ。
ふいにアメリカは携帯を取り出して電話をかけはじめる。相変わらずぶしつけな奴だと思っていると、聞き覚えのある音楽が流れてきて自然と視線が自分のバッグの方へ向いた。
なんだ、俺宛てか。そう気付いてイギリスはしばらくぼんやりとアメリカの後姿を眺めていたが、急に湧き上がった拭いがたい違和感に、ぞくりと身体を震わせてさすがに息をつめた。
「……アメリカ?」
声を掛ける。だが返事はない。
彼は窓際に置かれたイギリスのバッグにおもむろに近寄ると、勝手にその中身を漁り始めた。
明らかに様子がおかしい。いくら傍若無人なところがあるとは言え、人の私物にみだりに手を触れるような性格ではなかった。自称ヒーローというだけあって、変に潔癖なところを持つアメリカらしくないその行動に、イギリスはさきほどから感じる嫌な予感に全身の震えが止まらなかった。
「アメリカ!」
声を張り上げ、イギリスは立ち上がろう足に力を入れた。だがソファに身体が縫いつけられたかのように四肢はぴくりとも動かせず、深く沈みこんだままどんどんと睡魔だけが襲ってくるのだ。
そうこうしているうちに、思いもかけぬ険しい表情でアメリカが急に飛び出して行ってしまい、その後を追い掛けることも出来ないまま、イギリスはソファの上でずるずると横倒しになって眠りに落ちようとしていた。
あぁ、もう駄目だ。
そう思って瞼を閉ざした時、遠くで妖精たちの小さな笑い声が聞こえた気がした。
机の上に積み重なる書類の山。鳴り止まない電話に緊迫感漂うニュースの数々。
いつもとは違った、何故か突発的な仕事がこれでもかというほど舞い込んで来て、朝からずっと追われていた。
しかも悪いことというものは重なるようで、忙しくて手を離せない時に限って滅多に来ないアメリカからのメールを誤って削除してしまい、なんとも遣る瀬無い気分に陥りながら慌てて折り返しの謝罪メールを入れれば、実に下らないメールが再送されて来たり。(ちなみにそれは「俺の家の近くに新しくマクドナルドが出来たんだぞ!」だった)
気分転換に紅茶を淹れようとすればお気に入りの茶葉はなく、そう言えば昨夜飲んだのが最後だったことに気付いてうなだれ、疲労回復にと甘いものを求めても、こちらも今朝妖精たちに残り全部をあげてしまってボックスの中身は空。机の引き出しを探しても飴玉ひとつ見付からなかった。
とりあえず一段楽したところで食事のため外に出ようとしたら、バケツをひっくり返したような大雨でうんざりさせられたし、デリバリを頼めば事故に巻き込まれた店員から三十分の遅刻を言い渡された。
この際なんでもいいからと朝食用のオレンジジュースを持って仕事場に戻れば、疲れきっていたためか絨毯の襞に足を取られ、豪快に床へとダイブしてしまう。そして最悪なことにオレンジジュースは宙を舞い、さきほど仕上げたばかりの書類の上に容赦なく降り注ぐという、実に悪夢のような現実が繰り広げられた。
一人むなしく布巾で汚れた箇所を拭いながら、イギリスは重い溜息をこぼして今夜は浴びるほど酒を飲んでフテ寝してやると心に誓う。
そうだ、こんな日はあれこれ考えずに泥酔して記憶を飛ばしてしまった方が、きっとずっといいに違いない。イライラも切なさも全て忘れて飲みまくろう、そう思ってサイドボードに近寄れば酒瓶は見当たらず、ワインセラーにもハーフボトルが一本、申し訳ない程度に入っているのみだ。
あぁ、そう言えば週末フランスと飲み明かした時に根こそぎいったんだっけな……そんなことをぼんやりと思い出し、一瞬茫然としたのちついに彼は叫び声を上げた。
―――― こんなのはあんまりだ!
そうして腹立ちまぎれに放り投げた布巾が花瓶にあたり、さらなる被害を広げたことは特筆すべき事項であろうか。
* * * * * * * * * * * * * * *
アメリカがその日ロンドンに到着したのは、日も暮れた夜の七時過ぎのことだった。
雨が上がったばかりなのだろう、街のあちこちにまだ水の匂いが残っている。
イギリスという国はいつ来ても緑と水の気配に包まれていて、時にすがすがしく、また時に鬱陶しく感じられるのが特徴的だ。それは懐かしい記憶をアメリカにもたらすこともあったし、忘れたい思い出を呼び覚ます時もあったが、そのどれもが今はなくてはならないものだと感じている。
彼の家のドアをノックするのは実に馴染んだ行動だった。それだけ自分がここへ来ているんだなぁと思えばなんだか少し気恥ずかしさを感じる。
幼い頃は彼の来訪を心待ちにしているだけだったが、今ではこうして自らの足で彼のもとへ来ることが出来るのだ。とりもなおさずそれだけ自分は大きくなったのだし、イギリスとの関係も深くより親密になったことを示していた。
それが素直に嬉しい。
本人を目の前にしてはなかなかそんな気持ちは出せなかったが、アメリカは今ここにいる自分が幸せであることを実感している。
「イギリス?」
ノックに続いてドアベルを鳴らしながら、いつもならすぐに出て来てくれるであろうこの家の主人が、なかなか足音を響かせないことに首をかしげて、アメリカは腕時計で時刻を確かめた。まだ寝るには早すぎる時間だ。
ここへ来る前に空港からパソコンにメールを入れた時は、すぐに返信が合ったので在宅していることは間違いない。急用が入って外出したとも考えられるが、今日は一日仕事に追われて忙しいというようなことが書かれてあったので、可能性としてはだいぶ低かった。
ためしに電話を掛けて見るが出る気配もない。
気分転換にシャワーでも浴びているのだろうかと思いながら、庭へ移動し裏手の方へと回ってみる。二階にある執務室の窓を見上げれば明かりが煌々とついているのが確認出来た。
やっぱりいるんじゃないかと唇を尖らせ、おーいと呼んでみても返事はなく、こうなったらあとは行動あるのみだった。
アメリカは玄関前に戻ると合鍵を取り出して施錠を解いた。さすがに家主が居るのに許可なく家に入るのはためらわれていたが、この場合話は別である。
キィ、と軋んだ音を立てて開かれたドアの先、暗い廊下に足を進めると勝手知ったるなんとかで、アメリカはずんずん奥へと入っていった。
「イギリスー? いるんだろう?」
二階に続く階段を上がりながら声を掛けて見る。気配に敏い彼がやすやすと侵入を許すはずもないのだが、ここまで来ても反応がないとなると、少しだけ不審に思ってしまう。
執務室の前にたどりつけば薄く開いた扉から細い明かりがもれていて、やはり彼はここにいるはずだと確信した。
「イギリス、俺だよ。入ってもいい?」
仕事部屋に無断で立ち入らないことは、最低限のマナーだ。『国』である自分たちは守らなければならない国家機密を取り扱うこともあるし、重要な来客の可能性もある。
だが、耳を澄ませても物音ひとつ聞こえてこないので客の心配はなさそうだったが、それにしても不気味なぐらい静まり返っているのがいかにも不自然だった。
「……失礼するよ」
もう一度声を掛けてからドアノブに手を掛ける。そしてゆっくりと引けば眩しい電光に一瞬だけ目が眩んだ。
瞬きをし、そのままずかずかと室内に入り込むものの、見まわしても人影はなくイギリスの姿はどこにも見当たらなかった。こんなことは初めてである。
「イギリス?」
トイレにでも行ったのか? それとも何か足りないものがあって急に買い物に出たのか? そう思いながらもなんとなく違和感を感じてアメリカはソファの近くまで歩み寄ってみた。
柔らかな革張りのもので、落ち着いた色合いがなんとも言えないイギリス一番のお気に入りだ。仕事の合間によくここで彼は紅茶を飲み、本を読んだりしているのを何度も見かけたことがある。
そんなソファだったが、今は誰もおらず、ただ静かにそこに置かれているだけだ。
ふとテーブルに置かれた空っぽのグラスを見つけ、アメリカはなんとはなしに手に取った。オレンジジュースが入っていたのか柑橘系の甘い香りと、糖分のベタつきが指先に感じられる。汚れたグラスを置きっぱなしにするなど随分イギリスらしくない行為だと訝しみ、そのまま今度は正面にある大きな樫の木で造られた重厚な机の方へと歩みを進めた。
そこでアメリカは目に飛び込んできた思いもかけない光景に、知らずぎゅっと眉間に皺を刻んだ。
いつもデスクの片隅に置かれている一輪挿しが倒れ、中の水がこぼれて卓上に広がり、瑞々しい薔薇が無残にずぶ濡れになっていた。
何が起きたのか分からずに視線を移していけば、すぐ近くにはオレンジ色に染まった布巾が無造作に落ちていて、余計に頭が混乱するばかりである。
一体これはどうしたわけか。花瓶はイギリスが倒したのだろうか? それならば何故彼の姿が見当たらない?
こんな惨状をあのイギリスが放っておくとはとても思えなかった。
「イギリス!」
手にしたグラスを置いてもう一度、今度は怒鳴るように名前を呼ぶ。家中に響くような大音量だ。
だが、しんと静まり返った室内に自らの声が木霊するだけでいらえはない。
何度か繰り返し呼んでもそれは変わらず、アメリカは唇を噛み締めると携帯電話を取り出してイギリスのそれにかけてみた。
すぐに聞きなれた電子音楽が耳に付く。
はっとして音の出所を探してみれば、彼の携帯電話は窓際に置かれたバッグの中にあるようだった。
悪いとは思ったが遠慮なく開けてみると、そこには携帯電話をはじめ財布や手帳、キーケースに筆記具、エチケット用品等が丁寧にしまわれている。どれもアメリカが何度も目にしたことのある彼の愛用品の数々だ。
とてもこららを置いてイギリスが外出するとは考えられなかった。
何かがおかしい……そう思った瞬間、弾かれたようにアメリカは部屋を飛び出した。そして次々と家中のドアを開けて中を確認し、イギリスの姿を探しまわった。
トイレにはいない。シャワールームも空っぽ。ベットルームにもいない、客間も同じだ。
階下に駆け降りてリビングとキッチンを見ても人影はなく、応接間を覗き、倉庫を探してもイギリスはどこにもいなかった。
あと考えられるのは庭だが、灯りひとつついていない暗闇の中にいるとは考えられないし、一応温室の方へ走ってみてもその気配はまるでなし。
街へ出てしまったのだろうかと思いながらも、やはり執務室の倒れた花瓶が気になってその考えは打ち消した。
どんなに急ぎの事情があっても、あのイギリスが大切な薔薇を倒れたままにしておくはずがない。絶対に、ない。
「イギリス……」
途方に暮れたような顔でアメリカは彼の名を呟き、暗がりの中でどうしたらいいのかを考えていた。
* * * * * * * * * * * * * * *
投げつけた布巾によってガツ、と音がして倒れた花瓶は、容赦なく机の上に水たまりを広げていった。当然そこに飾られていた薔薇の花は重力に従ってはらりと花弁を散らす。
イギリスはなんだか泣き出しそうな顔でその惨劇を見つめていたが、やがて片づける気力も失せてゆるゆるとその場に膝をついてしまった。
『イギリス大丈夫?』
「あ、あぁ……」
妖精たちの慰めの言葉も今はなんとなく虚しく感じられ、これは随分と参っているなぁと自分でも感じられた。
根をつめて仕事をするのも、忙しく立ち回るのも基本的に嫌いではない。むしろ充実した時間を送ることが出来るので、余裕さえあれば願ったりかなったりなのだ。
だが今日はとにかく重なりすぎる。しかもマイナス方面によりいっそう傾いているのが最悪だ。いろいろとストレスが溜まっていた矢先だったので、余計に精神的にくるものがあった。
「今日はもう休もう……」
呟いてよろよろと立ちあがると、倒れた可哀相な薔薇も目に入らないままイギリスは寝室へ向かおうと踵を返した。
そこへ妖精の一人がふわりと鼻先に飛んできて、実に可愛らしい笑顔を見せる。
『いい夢が見られますように!』
彼女はそう言って手にした小さなステッキ(ブリタニアエンジェルが持つそれと酷似している)を振って、祝福の言葉と共に光り輝く魔法をかけてきた。
突然のことに目を丸くしてイギリスはその光を思いきり浴び、なにがなんだかよく分からないまま瞬きを繰り返した。
「……?」
さっと身体に何か異変が起きたような気がしたが、違和感は一瞬だけですぐに元に戻る。
なんだろうと首を捻りながらとにかく妖精にありがとう、と声を掛けて歩き出そうとして ―――― 廊下に人の気配を感じて足を止めた。
今日は予定はなかったはずだ。こんな時間に誰だろう、そう思いながらイギリスは忌々しげに舌打ちをした。
折角これから休もうと思っていたのに、今日は本当になんてタイミングの悪い最悪な日なんだ! いったい俺が何をした! と憤慨しつつもふいに気付いて息を呑む。
良く考えれば家の中に人の気配があるのはおかしい。まさか泥棒でも入ったのかと思って警戒心もあらわに耳を澄ませていると、続いて良く通る声が聞こえて来た。
「イギリスー? いるんだろう?」
アメリカだ。約束した覚えはなくても彼なら突然やって来ることは珍しくない。部屋の明かりを確認して合鍵で入って来たのだろう。
まったく前もって連絡を入れろといつもあれほど注意しているというのに、いつになったらきちんとした振る舞いが出来るのだろうか。
口煩く言いたくはないが改めないアメリカが悪い。子供の頃に甘やかしたツケが回って来てしまったのだろうかと、当時の自分を棚上げしながら戸口の方を見やれば、珍しく室内を伺う気配が感じられた。
「アメリカ? 入ってこいよ」
声をかけるがしばらく返事はなく、続いて「イギリス、俺だよ。入ってもいい?」と聞かれた。
普段なら許可をすればすぐにでもバーンとドアを勢い良く開けて飛び込んでくると言うのに、いったいどういう風の吹き回しだろう。
なんだか噛み合わないものを感じ、奇妙な雰囲気を不審に思いながらも「ああ、いいぞ」と答えれば「……失礼するよ」と、これまた不似合いな言葉と共に恐る恐るドアが開かれた。
隙間からひょこりとアメリカが顔を出す。
「なんだよ、今日は随分大人しいんだな」
言いながら、イギリスは疲れたように吐息をついて、革張りのソファに腰を下した。どうも身体がいつも以上にだるくて、なんだか立っているのも辛くて仕方がない。
柔らかなそれに深く体を沈めれば、全身に鉛のような重さを感じて身を起こすのも億劫になってしまう。これは本格的に休息しないと駄目だなと思いつつ、室内に入り込んで来たアメリカを見上げて……戸惑った。
アメリカはきょろきょろと室内を見回すように首をめぐらし、それから何かを探すように部屋の中央で立ち止まった。すぐ脇のソファに座るイギリスの方などまるで見向きもしない。
「アメリカ?」
怪訝そうに呼びかけても彼は声が聞こえないかのように、難しい顔をしたまま唇に指先を当てて考え込んでいる。
「イギリス?」
名前を呼ばれた。「なんだよ?」、と返事をしてもアメリカはこちらを向かない。視線はさまようように揺れ、そのまま彼はテーブルの上に置かれたグラスに目を落とした。
さきほどイギリスがオレンジジュースをぶちまけてしまったせいで、中身は空っぽである。それを何故か手に取り、ためつすがめつ眺め遣りながら、アメリカはそのまま執務用のデスクへと歩みを進めた。
「おい、なんだよ。勝手にいじるなよ」
イギリスが声を掛けてもアメリカは無視をしたまま、何事か考え込むような顔をして黙りこんでいる。
そんな彼が倒れた花瓶と薔薇の花を目にした瞬間、明かな動揺とともに鋭い声で「イギリス!」と叫んだので、あわててイギリスはその背に声を掛けるのだった。
「さっき倒しちまって。あとで片づけるから放っておいてくれ」
アメリカは不信感いっぱいの顔付きで唇を噛み、無言で机の上に広がる水たまりを睨みつけていた。
どうせ、まさかあのイギリスが片付けを怠るなんて、とそんなふうに思っているのだろう。確かにそのままにしておくのは自分らしくないし、日頃口煩く片付けを推奨している身としては弁解の余地はない。
でも今はどうにも身体が重くて立ち上がる気力すらなかった。
さきほどから……そう、アメリカがこの部屋に入って来た時から、耐えがたい眠気に襲われて、気を抜くとすぐにでも意識が落ちてしまいそうなほどなのだ。
ふいにアメリカは携帯を取り出して電話をかけはじめる。相変わらずぶしつけな奴だと思っていると、聞き覚えのある音楽が流れてきて自然と視線が自分のバッグの方へ向いた。
なんだ、俺宛てか。そう気付いてイギリスはしばらくぼんやりとアメリカの後姿を眺めていたが、急に湧き上がった拭いがたい違和感に、ぞくりと身体を震わせてさすがに息をつめた。
「……アメリカ?」
声を掛ける。だが返事はない。
彼は窓際に置かれたイギリスのバッグにおもむろに近寄ると、勝手にその中身を漁り始めた。
明らかに様子がおかしい。いくら傍若無人なところがあるとは言え、人の私物にみだりに手を触れるような性格ではなかった。自称ヒーローというだけあって、変に潔癖なところを持つアメリカらしくないその行動に、イギリスはさきほどから感じる嫌な予感に全身の震えが止まらなかった。
「アメリカ!」
声を張り上げ、イギリスは立ち上がろう足に力を入れた。だがソファに身体が縫いつけられたかのように四肢はぴくりとも動かせず、深く沈みこんだままどんどんと睡魔だけが襲ってくるのだ。
そうこうしているうちに、思いもかけぬ険しい表情でアメリカが急に飛び出して行ってしまい、その後を追い掛けることも出来ないまま、イギリスはソファの上でずるずると横倒しになって眠りに落ちようとしていた。
あぁ、もう駄目だ。
そう思って瞼を閉ざした時、遠くで妖精たちの小さな笑い声が聞こえた気がした。
- 後編 -
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