紅茶をどうぞ
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[お題] 向日葵 3
会議は滞りなく終わった。
開始前の予想通り、アメリカが突拍子もないことを言って皆に呆れられたくらいで、とくに問題はなくスムーズに話し合いは済んだ。
イギリスは隣に座るフランスにちょっかいを出されながらも、いつも通りの遣り取りに始終して、向かいの席のロシアを特別意識することもなかった。一度も目は合わせていないが、今までの二人の関係を思えばそれもまた不自然な行為ではない。変わったそぶりは互いに見せなった。
日本はロシアの隣に腰を下ろしてからは必要以上に発言はせず、ただ時折ロシアから話しかければ小さく頷くだけにとどめていた。気配り上手な友人は余計なことは一切言わないだろう。その点は本当に安心出来る。
相変わらずのドイツとイタリアの会話を挟みながら、最後は存在感の薄いカナダにようやく全員が気付いて驚きながらの閉幕となった。
イギリスは先日メールで回って来た英連邦会議の時間調整の件について、カナダを呼び止めた。他の国は次々と退室していく。
しばらく話して用件が済むと、そのまま二人で部屋を後にする。並んで歩いていると、ふと廊下の先にロシアがいるのが見えた。誰かを探しているのだろうか、きょろきょろと周囲を見回している。
軽く会釈をして横を通り過ぎようとしたカナダと、やはり同じように歩いていこうとしたイギリスだったが、なんとなく気になって足を止めた。
カナダに先に行くよう伝えると、そのままロシアの方へ身体を向ける。首を巡らしていたロシアはイギリスの行動に一瞬怪訝そうにこちらを見てから、それとはっきり分かるくらい不機嫌そうに眉を顰めた。いかにも迷惑といった表情が窺える。
なに?と乾いた声で問われれば、自然と見返す眼差しもきつくなろうというものだ。
高い位置から落とされた瞳の奥にかつてない程の冷たさを見て取り、イギリスは自分の中がざわりと震えるのを感じた。
「誰か探しているのか」
「イギリス君にはぜんぜん関係ないよ。放っておいてくれないかな」
「……ロシア。妖精たちがお前のところの菓子が欲しいと言っているんだ。週末うちに来てくれないか」
挑むように相手の目を見据えてそう言えば、驚いたように目を丸くしたロシアが、今度は呆れたように笑った。
「馬鹿じゃないの? 僕、君のこと嫌いなんだけど。なんでわざわざ辛気臭い島国なんかに行かなきゃいけないわけ?」
「新しいアッサムが手に入ったからとびきり上等なミルクティーを淹れてやる。木苺のジャムもあるぞ」
「君ね、いい加減にしてくれないかな。それとも嫌がらせ? 相変わらず性格悪いよね本当」
そう言って睨みつけてくるロシアを見返して、イギリスは瞬間、彼が何を考えているのか分かった気がした。
あぁそうだ、これには覚えがある。
確かに日本の言った通りだと思った。目を見れば分かると彼は言ったが、なるほど、実に簡単に分かってしまった。
本当はこのまま離れるべきなのだろう。お互いのためにもその方がずっといい選択肢に違いない。
他の国もきっとそれを望んでいるはずだ……それでも、日本は教えてくれた。背を押してくれたのだ。
迷うなど自分にはいかに似つかわしくないかを、彼は教えてくれたのだ。
そうと決めたら実行に移すのは早い方がいい。イギリスは不審そうにこちらを見下ろすロシアの手をいきなり掴むと、そのままぐいぐいと引っ張り始めた。
唖然としてよろめく大きな身体を、力の限り引っ張っていく。
「ちょ、っとイギリス君、なに、」
「ヒマワリを見に行くぞ」
「え、ヒマワリ?」
突然のことに戸惑った声を上げるロシアを、イギリスは歩きながら振り返った。その視線の先には思い切り不愉快な顔がある。
「嫌だよ、なんで君なんかと……離して。僕は行かないよ」
「駄目だお前も来い。俺一人で見たってつまらないだろ」
「知らないよ。いい加減にしてってば! 言ったでしょ、僕は君のこと大嫌いだって……!」
声を荒げて掴まれた手を振りほどこうと腕に力を入れるロシアに、イギリスは立ち止まってまっすぐ視線を合わせた。
そしてきっぱりと言う。
「俺はお前のことが好きだ」
「……え……?」
「お前が笑っていると嬉しいし、お前の好きなヒマワリを一緒に見たいと思う。お前には俺の淹れた紅茶を誰より飲んでもらいたい。それじゃ駄目なのか?」
問いかければぽかんとした表情でロシアは固まった。文字通り硬直してしまって、その場を一歩も動かない。
イギリスは小さく笑うと手を離した。そして茫然としているロシアのすぐ真下からその顔を覗き込む。そこには先ほどまでの冷たさは微塵も感じない。それどころか困惑が色濃く浮んでいた。
「お前、本当に子供なんだなぁ」
しょうがないというようにイギリスはロシアの頬に両手を添えた。周囲に人気がないことを幸いに距離を縮める。
そして硬直したままのロシアと間近で目を合わせて苦笑を浮かべた。
「俺もどうしようもないけど、お前もたいがいだなぁ。素直じゃない」
「イギリス君なんて大」
「ストップ! それすっげー傷つくんだぞ。お前から嫌いって言われた時、最悪な気分になった」
「……そんなの僕には関係ない」
「昔さ、お前にそっくりなガキがいたんだ。本当に似てて嫌になるくらいだけど、だから良く分かるんだ」
記憶の片隅に存在する過去の映像が繰り返し流れていく。
忘れたと思っていたそれらはたやすくこうして思い出されるのだ。
小さな身体、小さな手。泣いて泣いて泣き疲れて眠った夜の記憶。今はもう色褪せてすっかり遠くへ追いやられていたそれらが、浮かび上がって来るのを感じる。
ロシアは顔をゆがめて嫌悪感を剥き出しにした。彼にとってイギリスの言う『子供』とは、たった一人を指すらしい。
「アメリカ君? やめてよ、一緒にされたくない」
「違う。お前は……いい意味でも悪い意味でもアメリカとは全然似ていない。―― お前が似ているのは」
暗闇で怯えて泣く子供が見える。まわりは全て敵で、身を守るために相手を傷つけることしか教わらなかった。攻撃することだけが唯一の防御であり、差し伸べられた手は全て裏切りの果てに歪んだ妄想となった。
望んだものは何ひとつ得られず、夢を見ることも許されない。痛みと荒廃の果てに見出したのは力という名の絶対だった。
いつしか色んなものが信じられなくなり、猜疑と暴力だけが真実となった。そして最後には何も残らないと頑なに思い込み……偽善の果てに身につけたのは自ら捨て去ることだった。
求めたのはたったひとつの言葉だと言うのに。
あぁそうだ、小さな子供が目の前の男に投影される。
独りで生きていく術を手にした幼いその子は、傷つけることでしか他人との距離を測れない。肉体も精神も暴力でしか支配出来ないと思い込んでいて、それなのに与えられたものにはひどく怯えて、結局切り捨てることしか出来ないのだ。
なんて寂しくて、なんて可哀相なんだろう。
それはまさに遠い昔のイギリス自身だった。
思ったよりも風が強い。
ヘリを降りて地面に降り立つと、長いこと揺られていたせいか浮遊感が残っていて、身体がどこか奇妙な感覚を伝えてくる。
大きく伸びをして、続いて降りて来たロシアを振り返ると、彼はどこかぼんやりとした表情で空を見上げた。風に乱される髪が頬にかかり鬱陶しくはないだろうかと思ったが、これ以上機嫌を損ねても仕方がないので黙っていることにする。
なんだかんだと文句の尽きない彼を引っ張って、軍用機でモスクワまで飛んで来た。国家権力をここまでフルに活用したことは戦時中以外ない。あとで上司に何を言われるか……考えれば頭が痛いが、今は取り敢えず懸念事項すべてに無視を決め込んだ。
ジュコフスキーの空軍基地でハインドに乗り換え、渋々ながらも特権を活用してくれたロシアともどもウクライナ寄りに南下をする。さすが世界最大の国土を誇るだけあって、軍用ヘリを利用してもかなりの時間がかかった。
「この先10分ほど行ったところが目的地です。我々はここでお待ちしていますからお気をつけて行ってらして下さい」
「あぁ、感謝する。ほら行くぞ、ロシア」
空軍のベテランパイロットを含めた数人の軍人たちの見送りを背に、イギリスは棒立ちのロシアに声をかけた。いらえはない。
仕方なしに無言のままのロシアの手を強引に握って一歩を踏み出せば、逡巡するように付いてきた。
まったく軍の連中が見ているのだからあまり恥ずかしい真似はさせないでくれと思うのだが、こんなところで喧嘩をする方がよっぽどみっともないので、イギリスはぐいぐいと腕を引っ張るだけにとどめた。
このあたり一帯は地元の農家の私有地なので、普段はあまり余所の人間が訪れることはないそうだ。食用油としても優秀な向日葵の栽培地のため、うっかりヘリの風圧で花が吹き飛ばされないよう少し離れた所に着陸をしている。畑まではまだ少し距離があるらしい。
なだらかな丘陵を登り素朴な田舎道を歩いて行けば、落ち着いた緑をたたえる森が目の前に広がる。どうやらこの先が目的の場所らしいと見当をつけた。
期待を胸にどんどん進んでいけば頭上からロシアの溜息が降って来る。ここまで来てもまだ機嫌を直さないと言うのか。
イギリスはちらりと後ろを睨みつけてから、再び前を見据えて歩み続けた。文句の一つでも言ってやろうかとも思ったが、今は言い争う気はない。
しょうがない奴だとそう思って森を横切り更に歩いて行けば、ふと前方にきらりと金色に輝く光を見つけた。
「あれは……」
「ドン河だよ」
それまで黙ってついてくるだけだったロシアがぽつりと言った。確かに目を凝らせばそれは川の流れだと分かった。
ゆったりと流れる静かな水面に、高い空に浮かんだ入道雲が映り込み、日の光を反射してキラキラと輝いている。
「あれがドンなのか」
「母なるドン、豊かなる恵みのドン。そして」
「『コサックよ、ロシアを守れ!』だったよな、確か」
呟やくように口にしたイギリスの言葉に反応して振り返り、ロシアは高い位置からこちらの顔を覗きこんで来た。ためらいなく真っ直ぐ見返せば、一瞬驚いたように目を見開き、彼はどこか遠い目をして視線を外す。
イギリスは先の大戦で世界史上最も多い死者を出した激戦地の事を思い出していた。独ソ戦は恐らくこの先二度とないだろうと言われている、史上最悪の地上戦だった。
あの時は自分もバトルオブブリテンの後だったのでほとんど他国に出ることはなかったが、もたらされた戦火の報に戦慄したことを覚えている。
ドンの流れは北の守り。
広大なロシアの大地に優雅に横たわっているその姿は、母なる流れの名に相応しく本当に美しかった。
二人は並んで森を背に川の流れを目指した。そのたびに溢れるような色彩が一面に広がっていき、徐々にロシアの機嫌も上向きになって来る。
本当にヒマワリが好きなんだな、と思いながらイギリスはなだらかな道をたどるように足を進めた。
「ここは昔からロシアの中でも比較的あったかいところでね、とても豊かな穀倉地帯なんだ。だから……ヒマワリも沢山植えられていて、この時期は本当に明るいんだよ」
ほら、と言ってロシアが指差した方向に視線を飛ばせば、きらめく水に寄り添うように、広大なヒマワリ畑が広がっているのが見えた。
ゆらりと風に踊りながら大輪の花は見事に咲き誇っている。まるで地上に小さな太陽が落ちてきたみたいだとイギリスは思った。
近付くとそのあまりの迫力に言葉を失う。フィンランドの言った通り、ここのヒマワリは圧倒的に他のものに比べて大きかった。ゆうに3メートルは越えているだろうか、ロシアの長身でさえ負けている。花もイギリスが普段見掛けるものよりも二回り近く大きく、葉も立派に生い茂っていた。
それが見渡す限り一面を彩っている。黄と緑のコントラストが高い空の青に混じってどこまでもどこまでも果てなく続いているのだ。
吸い込まれそうな気がして咄嗟にロシアの腕に縋る。それくらい圧倒される光景だった。
「凄いな……!」
「うん」
素直に驚嘆の声を上げると、ロシアは子供のような顔で笑ってこくりと頷いた。
暖かいところでヒマワリに囲まれて暮らしたいと語ったあの時のままに、その笑顔はひどく無邪気で透明なものだった。
あぁ、そうだ。自分はこの顔が見たかったんだ。
こうやって綺麗に笑う彼が見たくて……ただそれだけだった。
それだけでこんなにも。
「ロシア」
名前を呼んで手を伸してその身体を抱き締めると、かすかに雪の香りがする。それでもイギリスはその内側にあるぬくもりを求めて、強く両腕を背中に回した。
きっと二人でいれば寒くない。暗闇におびえて固く閉じこもり、冷たく凍える夜に泣いて痛みと苦しみにうずくまる子供がただひとつ求めたものは、ささやかでとても純粋なもの。
顔を上げてそっと背伸びをするとこちらを見下ろすロシアの唇に自分のそれを重ねた。
冷たい感触を塗り替えるようにゆっくりと。
―――― ヒマワリの花言葉を胸に思い浮かべながら。
開始前の予想通り、アメリカが突拍子もないことを言って皆に呆れられたくらいで、とくに問題はなくスムーズに話し合いは済んだ。
イギリスは隣に座るフランスにちょっかいを出されながらも、いつも通りの遣り取りに始終して、向かいの席のロシアを特別意識することもなかった。一度も目は合わせていないが、今までの二人の関係を思えばそれもまた不自然な行為ではない。変わったそぶりは互いに見せなった。
日本はロシアの隣に腰を下ろしてからは必要以上に発言はせず、ただ時折ロシアから話しかければ小さく頷くだけにとどめていた。気配り上手な友人は余計なことは一切言わないだろう。その点は本当に安心出来る。
相変わらずのドイツとイタリアの会話を挟みながら、最後は存在感の薄いカナダにようやく全員が気付いて驚きながらの閉幕となった。
イギリスは先日メールで回って来た英連邦会議の時間調整の件について、カナダを呼び止めた。他の国は次々と退室していく。
しばらく話して用件が済むと、そのまま二人で部屋を後にする。並んで歩いていると、ふと廊下の先にロシアがいるのが見えた。誰かを探しているのだろうか、きょろきょろと周囲を見回している。
軽く会釈をして横を通り過ぎようとしたカナダと、やはり同じように歩いていこうとしたイギリスだったが、なんとなく気になって足を止めた。
カナダに先に行くよう伝えると、そのままロシアの方へ身体を向ける。首を巡らしていたロシアはイギリスの行動に一瞬怪訝そうにこちらを見てから、それとはっきり分かるくらい不機嫌そうに眉を顰めた。いかにも迷惑といった表情が窺える。
なに?と乾いた声で問われれば、自然と見返す眼差しもきつくなろうというものだ。
高い位置から落とされた瞳の奥にかつてない程の冷たさを見て取り、イギリスは自分の中がざわりと震えるのを感じた。
「誰か探しているのか」
「イギリス君にはぜんぜん関係ないよ。放っておいてくれないかな」
「……ロシア。妖精たちがお前のところの菓子が欲しいと言っているんだ。週末うちに来てくれないか」
挑むように相手の目を見据えてそう言えば、驚いたように目を丸くしたロシアが、今度は呆れたように笑った。
「馬鹿じゃないの? 僕、君のこと嫌いなんだけど。なんでわざわざ辛気臭い島国なんかに行かなきゃいけないわけ?」
「新しいアッサムが手に入ったからとびきり上等なミルクティーを淹れてやる。木苺のジャムもあるぞ」
「君ね、いい加減にしてくれないかな。それとも嫌がらせ? 相変わらず性格悪いよね本当」
そう言って睨みつけてくるロシアを見返して、イギリスは瞬間、彼が何を考えているのか分かった気がした。
あぁそうだ、これには覚えがある。
確かに日本の言った通りだと思った。目を見れば分かると彼は言ったが、なるほど、実に簡単に分かってしまった。
本当はこのまま離れるべきなのだろう。お互いのためにもその方がずっといい選択肢に違いない。
他の国もきっとそれを望んでいるはずだ……それでも、日本は教えてくれた。背を押してくれたのだ。
迷うなど自分にはいかに似つかわしくないかを、彼は教えてくれたのだ。
そうと決めたら実行に移すのは早い方がいい。イギリスは不審そうにこちらを見下ろすロシアの手をいきなり掴むと、そのままぐいぐいと引っ張り始めた。
唖然としてよろめく大きな身体を、力の限り引っ張っていく。
「ちょ、っとイギリス君、なに、」
「ヒマワリを見に行くぞ」
「え、ヒマワリ?」
突然のことに戸惑った声を上げるロシアを、イギリスは歩きながら振り返った。その視線の先には思い切り不愉快な顔がある。
「嫌だよ、なんで君なんかと……離して。僕は行かないよ」
「駄目だお前も来い。俺一人で見たってつまらないだろ」
「知らないよ。いい加減にしてってば! 言ったでしょ、僕は君のこと大嫌いだって……!」
声を荒げて掴まれた手を振りほどこうと腕に力を入れるロシアに、イギリスは立ち止まってまっすぐ視線を合わせた。
そしてきっぱりと言う。
「俺はお前のことが好きだ」
「……え……?」
「お前が笑っていると嬉しいし、お前の好きなヒマワリを一緒に見たいと思う。お前には俺の淹れた紅茶を誰より飲んでもらいたい。それじゃ駄目なのか?」
問いかければぽかんとした表情でロシアは固まった。文字通り硬直してしまって、その場を一歩も動かない。
イギリスは小さく笑うと手を離した。そして茫然としているロシアのすぐ真下からその顔を覗き込む。そこには先ほどまでの冷たさは微塵も感じない。それどころか困惑が色濃く浮んでいた。
「お前、本当に子供なんだなぁ」
しょうがないというようにイギリスはロシアの頬に両手を添えた。周囲に人気がないことを幸いに距離を縮める。
そして硬直したままのロシアと間近で目を合わせて苦笑を浮かべた。
「俺もどうしようもないけど、お前もたいがいだなぁ。素直じゃない」
「イギリス君なんて大」
「ストップ! それすっげー傷つくんだぞ。お前から嫌いって言われた時、最悪な気分になった」
「……そんなの僕には関係ない」
「昔さ、お前にそっくりなガキがいたんだ。本当に似てて嫌になるくらいだけど、だから良く分かるんだ」
記憶の片隅に存在する過去の映像が繰り返し流れていく。
忘れたと思っていたそれらはたやすくこうして思い出されるのだ。
小さな身体、小さな手。泣いて泣いて泣き疲れて眠った夜の記憶。今はもう色褪せてすっかり遠くへ追いやられていたそれらが、浮かび上がって来るのを感じる。
ロシアは顔をゆがめて嫌悪感を剥き出しにした。彼にとってイギリスの言う『子供』とは、たった一人を指すらしい。
「アメリカ君? やめてよ、一緒にされたくない」
「違う。お前は……いい意味でも悪い意味でもアメリカとは全然似ていない。―― お前が似ているのは」
暗闇で怯えて泣く子供が見える。まわりは全て敵で、身を守るために相手を傷つけることしか教わらなかった。攻撃することだけが唯一の防御であり、差し伸べられた手は全て裏切りの果てに歪んだ妄想となった。
望んだものは何ひとつ得られず、夢を見ることも許されない。痛みと荒廃の果てに見出したのは力という名の絶対だった。
いつしか色んなものが信じられなくなり、猜疑と暴力だけが真実となった。そして最後には何も残らないと頑なに思い込み……偽善の果てに身につけたのは自ら捨て去ることだった。
求めたのはたったひとつの言葉だと言うのに。
あぁそうだ、小さな子供が目の前の男に投影される。
独りで生きていく術を手にした幼いその子は、傷つけることでしか他人との距離を測れない。肉体も精神も暴力でしか支配出来ないと思い込んでいて、それなのに与えられたものにはひどく怯えて、結局切り捨てることしか出来ないのだ。
なんて寂しくて、なんて可哀相なんだろう。
それはまさに遠い昔のイギリス自身だった。
* * * * * * * *
思ったよりも風が強い。
ヘリを降りて地面に降り立つと、長いこと揺られていたせいか浮遊感が残っていて、身体がどこか奇妙な感覚を伝えてくる。
大きく伸びをして、続いて降りて来たロシアを振り返ると、彼はどこかぼんやりとした表情で空を見上げた。風に乱される髪が頬にかかり鬱陶しくはないだろうかと思ったが、これ以上機嫌を損ねても仕方がないので黙っていることにする。
なんだかんだと文句の尽きない彼を引っ張って、軍用機でモスクワまで飛んで来た。国家権力をここまでフルに活用したことは戦時中以外ない。あとで上司に何を言われるか……考えれば頭が痛いが、今は取り敢えず懸念事項すべてに無視を決め込んだ。
ジュコフスキーの空軍基地でハインドに乗り換え、渋々ながらも特権を活用してくれたロシアともどもウクライナ寄りに南下をする。さすが世界最大の国土を誇るだけあって、軍用ヘリを利用してもかなりの時間がかかった。
「この先10分ほど行ったところが目的地です。我々はここでお待ちしていますからお気をつけて行ってらして下さい」
「あぁ、感謝する。ほら行くぞ、ロシア」
空軍のベテランパイロットを含めた数人の軍人たちの見送りを背に、イギリスは棒立ちのロシアに声をかけた。いらえはない。
仕方なしに無言のままのロシアの手を強引に握って一歩を踏み出せば、逡巡するように付いてきた。
まったく軍の連中が見ているのだからあまり恥ずかしい真似はさせないでくれと思うのだが、こんなところで喧嘩をする方がよっぽどみっともないので、イギリスはぐいぐいと腕を引っ張るだけにとどめた。
このあたり一帯は地元の農家の私有地なので、普段はあまり余所の人間が訪れることはないそうだ。食用油としても優秀な向日葵の栽培地のため、うっかりヘリの風圧で花が吹き飛ばされないよう少し離れた所に着陸をしている。畑まではまだ少し距離があるらしい。
なだらかな丘陵を登り素朴な田舎道を歩いて行けば、落ち着いた緑をたたえる森が目の前に広がる。どうやらこの先が目的の場所らしいと見当をつけた。
期待を胸にどんどん進んでいけば頭上からロシアの溜息が降って来る。ここまで来てもまだ機嫌を直さないと言うのか。
イギリスはちらりと後ろを睨みつけてから、再び前を見据えて歩み続けた。文句の一つでも言ってやろうかとも思ったが、今は言い争う気はない。
しょうがない奴だとそう思って森を横切り更に歩いて行けば、ふと前方にきらりと金色に輝く光を見つけた。
「あれは……」
「ドン河だよ」
それまで黙ってついてくるだけだったロシアがぽつりと言った。確かに目を凝らせばそれは川の流れだと分かった。
ゆったりと流れる静かな水面に、高い空に浮かんだ入道雲が映り込み、日の光を反射してキラキラと輝いている。
「あれがドンなのか」
「母なるドン、豊かなる恵みのドン。そして」
「『コサックよ、ロシアを守れ!』だったよな、確か」
呟やくように口にしたイギリスの言葉に反応して振り返り、ロシアは高い位置からこちらの顔を覗きこんで来た。ためらいなく真っ直ぐ見返せば、一瞬驚いたように目を見開き、彼はどこか遠い目をして視線を外す。
イギリスは先の大戦で世界史上最も多い死者を出した激戦地の事を思い出していた。独ソ戦は恐らくこの先二度とないだろうと言われている、史上最悪の地上戦だった。
あの時は自分もバトルオブブリテンの後だったのでほとんど他国に出ることはなかったが、もたらされた戦火の報に戦慄したことを覚えている。
ドンの流れは北の守り。
広大なロシアの大地に優雅に横たわっているその姿は、母なる流れの名に相応しく本当に美しかった。
二人は並んで森を背に川の流れを目指した。そのたびに溢れるような色彩が一面に広がっていき、徐々にロシアの機嫌も上向きになって来る。
本当にヒマワリが好きなんだな、と思いながらイギリスはなだらかな道をたどるように足を進めた。
「ここは昔からロシアの中でも比較的あったかいところでね、とても豊かな穀倉地帯なんだ。だから……ヒマワリも沢山植えられていて、この時期は本当に明るいんだよ」
ほら、と言ってロシアが指差した方向に視線を飛ばせば、きらめく水に寄り添うように、広大なヒマワリ畑が広がっているのが見えた。
ゆらりと風に踊りながら大輪の花は見事に咲き誇っている。まるで地上に小さな太陽が落ちてきたみたいだとイギリスは思った。
近付くとそのあまりの迫力に言葉を失う。フィンランドの言った通り、ここのヒマワリは圧倒的に他のものに比べて大きかった。ゆうに3メートルは越えているだろうか、ロシアの長身でさえ負けている。花もイギリスが普段見掛けるものよりも二回り近く大きく、葉も立派に生い茂っていた。
それが見渡す限り一面を彩っている。黄と緑のコントラストが高い空の青に混じってどこまでもどこまでも果てなく続いているのだ。
吸い込まれそうな気がして咄嗟にロシアの腕に縋る。それくらい圧倒される光景だった。
「凄いな……!」
「うん」
素直に驚嘆の声を上げると、ロシアは子供のような顔で笑ってこくりと頷いた。
暖かいところでヒマワリに囲まれて暮らしたいと語ったあの時のままに、その笑顔はひどく無邪気で透明なものだった。
あぁ、そうだ。自分はこの顔が見たかったんだ。
こうやって綺麗に笑う彼が見たくて……ただそれだけだった。
それだけでこんなにも。
「ロシア」
名前を呼んで手を伸してその身体を抱き締めると、かすかに雪の香りがする。それでもイギリスはその内側にあるぬくもりを求めて、強く両腕を背中に回した。
きっと二人でいれば寒くない。暗闇におびえて固く閉じこもり、冷たく凍える夜に泣いて痛みと苦しみにうずくまる子供がただひとつ求めたものは、ささやかでとても純粋なもの。
顔を上げてそっと背伸びをするとこちらを見下ろすロシアの唇に自分のそれを重ねた。
冷たい感触を塗り替えるようにゆっくりと。
―――― ヒマワリの花言葉を胸に思い浮かべながら。
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