紅茶をどうぞ
[PR]
×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
[お題] 世界の外れに僕等二人
冷たい風が頬を撫でる。
肌寒さに上着の前をきっちりとしめると、イギリスは隣を歩くロシアを見上げた。
長いマフラーをまいた長身はゆっくりと広場を横切りながら、赤い壁の向こうに見える建物を指さす。壮厳な教会の屋根が日の光を反射して輝いて見えた。
「あれが聖ワシリイ大聖堂だよ」
「ロシア正教会の総本山、ってところか。クレムリンの一部?」
「ううん。クレムリンの外にあるけれどこの広場に面しているから、結構誤解されちゃってるけどね」
「赤の広場は、クラースナヤ・プローシシャチって言うんだったか?」
イギリスが以前教えてもらった名称を思い出しながら言うと、ロシアはそうそうと頷いてにこりと笑う。
「赤は、美しいものの象徴なんだよ」
「そうだな」
「イギリス君のところでも特別な色だものね」
「あぁ。赤は……いい」
イングランドの国旗は赤十字、国花の薔薇も深紅。
赤は昔からヨーロッパのいろんな国で好まれてきた色で、それはロシアも変わりがない。
「人間たちにとっては罪の色でもあるんだよな」
「知識の林檎だね」
「メソポタミア地方には林檎なんてなかったはずなのに、どうしてかそうなってる」
「不思議だよねぇ」
「でも万有引力の法則に使われるなんて、確かに知識の果実なのかもな」
「ニュートンはイギリス君ちの人だっけ」
「あぁ。あいつが大学にいたころはペストが大流行して欧州中大変だったよな。今でも覚えてる」
「うん、あれはまさに悪夢だったよね。そう言えば彼、最後の錬金術師って呼ばれているんだっけ?」
「国教会からの弾圧が激しくてひっそり研究してたせいだ」
「イギリス人らしいね」
「あー…そうだな」
相槌を打ちながらイギリスは当時のことを思い出してか小さく微笑を浮かべた。過ぎ去った時が懐かしいのだろう。彼のことだ、きっと研究の場に何度も足を運んでいたに違いない。
ロシアはあまり人間たちのやることに興味はなかったので、彼らが何をしていたのか実はよく覚えていない。最近でこそ周辺諸国の影響もあってか研究施設を覗くことも増えてはきたが、特別楽しいと思って見た事はなかった。
そんな自分とは違ってイギリスは根っからの学問好きで、昔から国民たちの研究に首をつっこんでは怪しい儀式なども行っているらしい。
あいにくと呪いの方はあまり効果がなかったようだが。
「お、あれはなんだ?」
「あの建物はね、ロブノエ・メスト。処刑台だよ」
「へぇ。結構来てるけどまともに観光したことなかったからなぁ。やっぱ古い建物を見て回るのはいい」
「ふふふ。アメリカ君が聞いたら嫌な顔するね」
「あいつは考古学好きなくせにすぐ黴臭いとか言うんだよな。ったく」
「そういうのを日本語だと天の邪鬼、って言うみたいだよ?」
「へー」
そのまま、とりとめもなくつらつらと話しながら、二人はモスクワ市内を観光して歩いた。
会議終了後、上司たち他のメンバーは各ホテルに直行していったようで、会議場には国であるイギリスとロシアだけが残された。
このところ英露どちらかで会議が行われた場合、宿泊先はお互いの個人宅に招き入れるのが常となっている。そのため上司たちとは別行動を取ることが多くなったのだが、そのことについて特別に何かを言われたことはない。
なんとなく暗黙の了解となっていた。
今日もお互い時間があるということで特別に約束したわけではなかったが、ぶらりと街中に出て、そのまま行くあてもなくモスクワ観光へと洒落込むことになったのだった。
幾度となくこの町には来ているが、こうして仕事から離れて巡るのははじめてで、思いの他イギリスは楽しんでいるように見える。最初は面倒臭いと断られるだろうと思ったロシアも、気まぐれに誘いをかけてみて良かったと思った。
モスクワ郊外にあるロシアの家にたどりつくと、取り敢えず荷物を置き上着をクローゼットにかけ、リビングに移動する。二人揃って通いの家政婦が用意していったという簡単な食事をとると、ほっと一息ついた。
食後に紅茶を飲みながらなんとなくソファに腰掛けていると、疲れが出たのが急な眠気に襲われる。
イギリスはソファに深く腰掛けたままうつらうつらとしはじめ、そのままクッションにもたれかかるように横倒しになった。
ふわりとした感触のそれは以前ロンドンでロシアが見付け欲しがっていたのを、イギリスが気まぐれで買って来たものだ。
ロシアには似つかわしくない実にかわいらしい熊のプリントがしてある。
「……イギリスくん?」
うたた寝しはじめている彼に気付いたロシアが、カップを置いて近づき顔を覗き込むと、すぅと穏やかな寝息が聞こえて来た。
いつもは仏頂面の彼もこうやって穏やかな表情をしていると、その童顔が際立ってまるで印象が違って見える。とてもではないが、欧州の強国とは思えないほどの幼さを感じさせるのだ。
「寝ちゃった……?」
あまりのことに驚いて目を丸くすると、ロシアは思わず息をひそめながら静かに彼との距離を縮めた。
警戒心の強さでなら自分たちは似た者同士。最近でこそロシアはイギリスの傍にいることを心地よく感じるようになっていたが、同じ感覚を彼と共有しているとはとても思えなかった。
もちろんプライドの高いイギリスが、心底嫌悪感を抱く者と食事はおろか同じ部屋に二人きりでいることを許容するはずがない。
少なからず彼に認められ、許されているのだろう。しかし。
―――― そんなに甘い国でもあるまいし。
「いいのかなぁ。僕、優しくないよ? 今でも全部ロシアにしたいって思ってるし、イギリス君のことはもうずーっと昔から殴りたいって思ってるし」
冗談めかしてわざとトーンの落ちた声音で話しかけても、イギリスはぴくりとも反応しなかった。まさか本気で眠りに落ちたわけでもあるまい。
どこまでが悪ふざけで済むのだろうかと思いながら、ロシアは半分面白がって、でも半分本気でイギリスの耳に囁きかけた。
「侵略、しちゃうよ?」
そっと頬に触れると柔らかな感触とほんのりぬくもりが伝わってくる。色味の強い金髪が夕暮れの中、窓から差し込む光に赤く染められていた。
ソファに片足をついて身を乗り出しイギリスの上に影を作る。無防備な白い首筋に唇を寄せれば、彼の好きな紅茶の香りがしたような気がした。
「…………」
イギリスは大人しく両目を閉ざしたまま起きようとはしない。しかし眠っていないことだけは確かだ。
これだけ他者の気配が近づけば、敏感な彼が気づかないはずはない。それなのに目を開けようとはしないイギリスに、ロシアは戸惑いと強い独占欲のようなものを感じた。
欲しい、素直にそう思う。今ここでイギリスを手に入れられたなら、自分はきっと何よりも満足するだろうと思う。かつてないほど満たされるかもしれない。
暖かくて、日差しの匂いのする彼に焦がれる自分が確かにいることを知っていた。
欲しい。あますところなくなにもかも全部手に入れることが出来たら。
きちんと結ばれたタイを指先でほどく。しゅるりと衣擦れの音とともに解けるモスグリーンのその下の、上品な真珠色したシャツのボタンを外せば、くっきりと浮き出た鎖骨が惜しげもなくさらされた。
ゆっくりと規則正しく上下する胸に掌を置き、鼓動を感じながら身をかがめてその喉元に唇を寄せた。
薄い皮膚の下の血液の流れる音さえも聞けそうな中、そっと口吻けようとして、―――― 直前でぴたりと動きを止める。
「いいの? イギリス君」
「…………」
問い掛けにイギリスの閉ざされた瞼が一瞬震えた。だが彼はやはり目を開けようとはしない。
ロシアの眼前で馬鹿みたいに無防備に力を抜いてソファに横たわり、大人しくされるがままでいようとしている。
信じられているのだろうか?
どうせ何もしない、とタカをくくっているのだろうか。
それとも触れられて構わないとでも?
あのイギリスが、自分なんかに?
ざわざわと背筋が粟立つ。
凶暴な捕食者としての本能が目の前の獲物に爪を立てようとしていると思った。
誰だったろう、セックスは食事のようだと言ったのは。確かにどちらも抗いがたい欲望であり衝動だ。喰らい尽すまできっとこの名もない感情は行方を知らないまま自分を蝕むだろう。
あぁでも。
きっと触れたら終わってしまうんだろうな、と思う。
せっかく手に入れた小さな小さな何かが跡形もなく壊れてしまうに違いない。
大好きな紅茶も、居心地のいい距離も、ときどき感じる温もりも。
ずっとずっと昔から恋をしていたひだまりのような気配も。
一度でも触れてしまったら、境界線を越えてしまったら、壊れて、そしてもう二度と手に入らなくなるに違いない。今までもそうだった。欲しいと思って触れたものは全部壊れた。文字通り跡形もなくバラバラになってしまったのだ。
寒くて寂しくて、真っ白な雪の中でただ凍えていることしか出来なかった、あんな日々にはもう戻りたくはない。求めても得られない歯痒さに泣いていた自分など思い出したくもない。
今ここでイギリスに手を出したら、きっと彼はロシアを許さないだろう。こうやって傍にいることを許し許されているような今の立場は、存在しなかったかのように消えてしまうのだ。
どうせいつかは終わりが来るというのに、何も今、無理に手放してしまう必要なんてどこにもない。あと少しだけ、タイムリミットが来るその日まで、傍にいられればいいと最初から割り切っていたはずだ。
世界は変わる。
どうせまた世界は移り変わるのだ。
敵になって味方になって、そしてまた敵になる。そうやって今までずっとずっと長い時を過ごしてきた。何度も繰り返し繰り返し傷付け憎み合って来た。
抗いようのない時代の流れの残酷さを知らないほど子供じゃない。それは自分たち国が背負わなければならない、永遠に変わることのないものだ。
「……毛布、持って来てあげるね」
乗り上げたソファから静かに膝をおろして、ロシアはイギリスから離れた。
無意識に握りしめていたタイを申し訳なさそうに彼の胸の上に置くと、そのまま部屋を出て行こうと踵を返す。
窓の外は夕日に染められてどこまでもどこまでもオレンジ色だった。
きれいだな、と思って歩き出そうとしたロシアは、だが急に伸びて来た手に洋服の裾を捉われて思わず足を止める。怪訝そうに振り返ると、あれだけ頑なに寝たふりを決め込んでいたイギリスの両目が開き、まっすぐに射るような眼差しを投げかけていた。
深い緑色の目がためらいを感じさせずにロシアの姿を映す。
「ロシア」
「なに? 毛布いるでしょ?」
「いらない。……ここにいろ」
「どうして?」
不思議に思って問いかけると、ゆっくりと上半身を起こしながらイギリスは、自分が頭を乗せていたクッションを手に取りロシアに向かって思い切り投げつけてきた。
受け止められなかったそれが音もなく床に落ちる。
「どうしたの?」
苦笑を浮かべながらロシアは足元に転がるクッションを拾い上げ、そこに描かれたテディベアのつぶらな目に視線を合わせた。
これ以上あまり話したくないと思った。相手が誰であろうと問い詰められるような真似は性に合わない。さきほどの自分の行動に対して恐らく機嫌を損ねているであろうイギリスが、何かを言い出す前にさっさとこの場から立ち去りたかった。
「紅茶、淹れてくる。君はミルクティーがいいのかな?」
「ここにいろって言ってんだろ」
イギリスは立ち上がるとロシアの手にしたクッションを取り上げ、邪魔だと言わんばかりにソファに放り投げた。その眼が剣呑な色を浮かべている。
そんな彼のまっすぐ睨みつけて来る眼差しの強烈さに、ロシアは在りし日の姿を思い出して少しだけ懐かしさを感じた。今のイギリスは確かに国連の常任理事国でありG7およびG8のメンバーなのだが、発言力の大きさに比べてだいぶ大人しくなってきている。以前の彼はもっと苛烈で冷酷で、さらに攻撃的かつ能面のような無表情さを合わせ持っていた。
それが近年ではだいぶ丸くなり、緩くなって来ている。そもそも戦争続きだった昔とは緊張感が大いに違うので、どの国も、それこそロシアでさえすっかり大人しいと評されるようになっていた。
だが決して衰えたわけではない。激情を表に出す必要がなくなっただけで、その本性は未だに潰えることのない凛とした存在なのだ。
イギリスは、相手の意図が掴めずぼんやりと佇んだままのロシアの腕を引き、無理やり二人でソファに腰をおろした。三人がけ用ではあるが、男二人が並んで座るには少々狭いと感じる。
長い話は嫌だなぁ、と思って小さく溜息をついていると、そんなロシアの気持ちなどまるで無視してイギリスは言い放った。
「毛布はお前だ」
「え?」
「膝貸せ」
偉そうに宣言するとイギリスはクッションをぎゅっと抱きしめて、そのままロシアの膝に頭を乗せた。まるで子供のような無邪気さでもぞもぞと頭の位置を定めると、満足げに口元に笑みを浮かべて再び両目を閉ざす。
じわりとした温かな体温が間近に感じられ、戸惑った表情のままロシアは真下に横たわる金色の頭を見下ろした。
「なにこの態勢」
「うっせ、黙ってろ」
「横暴だなぁ」
唇を尖らせて文句を言えば、くすくすと笑い声が聞こえてくる。そのたびに震動が伝わりなんだかこちらまでくすぐったい気分にさせられた。
こんなこと、本当だったら自分たちには一番似合わないはずなのに。
耳の下、首筋をそっと指先で辿っていき、頸動脈を上から押さえてみるととくとくと温かい音が聞こえるようだった。
イギリスは軽く肩を竦めてぐりぐりと足の上に額を押し当ててくる。抱き締められた熊が潰れて非難がましい目を向けてくるが気にしない。
薄いシャツの肩が寒そうだったので手のひらでそっと包み込んでみると、与えられた体温に満足したのか動くのをやめて本格的に寝入ろうとしていた。
穏やかな呼吸に導かれるようにロシアもそっと瞳を閉ざすと、どこか遠くで夕暮れを告げる鳥の声が聞こえた。
それと共に優しく柔らかな子守唄がひそやかに流れる。
あぁ、本当に。
彼が自分だけのものになればいいのに。
ずっとこうやって、誰にも邪魔されずに二人だけでいられたらいいのに。
「……だよ、イギリス君……」
呟いた言葉は自分にも彼にも永遠に届かない。
それなのに、気持良さそうに両目を閉ざしながらイギリスは、まるで何もかも分かっているかのように小さく頷いた。
さぁ、明日はどこへ行こうか。
二人で並んで歩けるのは、あと何回なんだろう。
たくさんいろんなものを見て、たくさん話して、そして。
君の淹れた紅茶の味を、この先もずっとずっと覚えていられたらいいのにな。
肌寒さに上着の前をきっちりとしめると、イギリスは隣を歩くロシアを見上げた。
長いマフラーをまいた長身はゆっくりと広場を横切りながら、赤い壁の向こうに見える建物を指さす。壮厳な教会の屋根が日の光を反射して輝いて見えた。
「あれが聖ワシリイ大聖堂だよ」
「ロシア正教会の総本山、ってところか。クレムリンの一部?」
「ううん。クレムリンの外にあるけれどこの広場に面しているから、結構誤解されちゃってるけどね」
「赤の広場は、クラースナヤ・プローシシャチって言うんだったか?」
イギリスが以前教えてもらった名称を思い出しながら言うと、ロシアはそうそうと頷いてにこりと笑う。
「赤は、美しいものの象徴なんだよ」
「そうだな」
「イギリス君のところでも特別な色だものね」
「あぁ。赤は……いい」
イングランドの国旗は赤十字、国花の薔薇も深紅。
赤は昔からヨーロッパのいろんな国で好まれてきた色で、それはロシアも変わりがない。
「人間たちにとっては罪の色でもあるんだよな」
「知識の林檎だね」
「メソポタミア地方には林檎なんてなかったはずなのに、どうしてかそうなってる」
「不思議だよねぇ」
「でも万有引力の法則に使われるなんて、確かに知識の果実なのかもな」
「ニュートンはイギリス君ちの人だっけ」
「あぁ。あいつが大学にいたころはペストが大流行して欧州中大変だったよな。今でも覚えてる」
「うん、あれはまさに悪夢だったよね。そう言えば彼、最後の錬金術師って呼ばれているんだっけ?」
「国教会からの弾圧が激しくてひっそり研究してたせいだ」
「イギリス人らしいね」
「あー…そうだな」
相槌を打ちながらイギリスは当時のことを思い出してか小さく微笑を浮かべた。過ぎ去った時が懐かしいのだろう。彼のことだ、きっと研究の場に何度も足を運んでいたに違いない。
ロシアはあまり人間たちのやることに興味はなかったので、彼らが何をしていたのか実はよく覚えていない。最近でこそ周辺諸国の影響もあってか研究施設を覗くことも増えてはきたが、特別楽しいと思って見た事はなかった。
そんな自分とは違ってイギリスは根っからの学問好きで、昔から国民たちの研究に首をつっこんでは怪しい儀式なども行っているらしい。
あいにくと呪いの方はあまり効果がなかったようだが。
「お、あれはなんだ?」
「あの建物はね、ロブノエ・メスト。処刑台だよ」
「へぇ。結構来てるけどまともに観光したことなかったからなぁ。やっぱ古い建物を見て回るのはいい」
「ふふふ。アメリカ君が聞いたら嫌な顔するね」
「あいつは考古学好きなくせにすぐ黴臭いとか言うんだよな。ったく」
「そういうのを日本語だと天の邪鬼、って言うみたいだよ?」
「へー」
そのまま、とりとめもなくつらつらと話しながら、二人はモスクワ市内を観光して歩いた。
会議終了後、上司たち他のメンバーは各ホテルに直行していったようで、会議場には国であるイギリスとロシアだけが残された。
このところ英露どちらかで会議が行われた場合、宿泊先はお互いの個人宅に招き入れるのが常となっている。そのため上司たちとは別行動を取ることが多くなったのだが、そのことについて特別に何かを言われたことはない。
なんとなく暗黙の了解となっていた。
今日もお互い時間があるということで特別に約束したわけではなかったが、ぶらりと街中に出て、そのまま行くあてもなくモスクワ観光へと洒落込むことになったのだった。
幾度となくこの町には来ているが、こうして仕事から離れて巡るのははじめてで、思いの他イギリスは楽しんでいるように見える。最初は面倒臭いと断られるだろうと思ったロシアも、気まぐれに誘いをかけてみて良かったと思った。
* * * * * * * * * * * * *
モスクワ郊外にあるロシアの家にたどりつくと、取り敢えず荷物を置き上着をクローゼットにかけ、リビングに移動する。二人揃って通いの家政婦が用意していったという簡単な食事をとると、ほっと一息ついた。
食後に紅茶を飲みながらなんとなくソファに腰掛けていると、疲れが出たのが急な眠気に襲われる。
イギリスはソファに深く腰掛けたままうつらうつらとしはじめ、そのままクッションにもたれかかるように横倒しになった。
ふわりとした感触のそれは以前ロンドンでロシアが見付け欲しがっていたのを、イギリスが気まぐれで買って来たものだ。
ロシアには似つかわしくない実にかわいらしい熊のプリントがしてある。
「……イギリスくん?」
うたた寝しはじめている彼に気付いたロシアが、カップを置いて近づき顔を覗き込むと、すぅと穏やかな寝息が聞こえて来た。
いつもは仏頂面の彼もこうやって穏やかな表情をしていると、その童顔が際立ってまるで印象が違って見える。とてもではないが、欧州の強国とは思えないほどの幼さを感じさせるのだ。
「寝ちゃった……?」
あまりのことに驚いて目を丸くすると、ロシアは思わず息をひそめながら静かに彼との距離を縮めた。
警戒心の強さでなら自分たちは似た者同士。最近でこそロシアはイギリスの傍にいることを心地よく感じるようになっていたが、同じ感覚を彼と共有しているとはとても思えなかった。
もちろんプライドの高いイギリスが、心底嫌悪感を抱く者と食事はおろか同じ部屋に二人きりでいることを許容するはずがない。
少なからず彼に認められ、許されているのだろう。しかし。
―――― そんなに甘い国でもあるまいし。
「いいのかなぁ。僕、優しくないよ? 今でも全部ロシアにしたいって思ってるし、イギリス君のことはもうずーっと昔から殴りたいって思ってるし」
冗談めかしてわざとトーンの落ちた声音で話しかけても、イギリスはぴくりとも反応しなかった。まさか本気で眠りに落ちたわけでもあるまい。
どこまでが悪ふざけで済むのだろうかと思いながら、ロシアは半分面白がって、でも半分本気でイギリスの耳に囁きかけた。
「侵略、しちゃうよ?」
そっと頬に触れると柔らかな感触とほんのりぬくもりが伝わってくる。色味の強い金髪が夕暮れの中、窓から差し込む光に赤く染められていた。
ソファに片足をついて身を乗り出しイギリスの上に影を作る。無防備な白い首筋に唇を寄せれば、彼の好きな紅茶の香りがしたような気がした。
「…………」
イギリスは大人しく両目を閉ざしたまま起きようとはしない。しかし眠っていないことだけは確かだ。
これだけ他者の気配が近づけば、敏感な彼が気づかないはずはない。それなのに目を開けようとはしないイギリスに、ロシアは戸惑いと強い独占欲のようなものを感じた。
欲しい、素直にそう思う。今ここでイギリスを手に入れられたなら、自分はきっと何よりも満足するだろうと思う。かつてないほど満たされるかもしれない。
暖かくて、日差しの匂いのする彼に焦がれる自分が確かにいることを知っていた。
欲しい。あますところなくなにもかも全部手に入れることが出来たら。
きちんと結ばれたタイを指先でほどく。しゅるりと衣擦れの音とともに解けるモスグリーンのその下の、上品な真珠色したシャツのボタンを外せば、くっきりと浮き出た鎖骨が惜しげもなくさらされた。
ゆっくりと規則正しく上下する胸に掌を置き、鼓動を感じながら身をかがめてその喉元に唇を寄せた。
薄い皮膚の下の血液の流れる音さえも聞けそうな中、そっと口吻けようとして、―――― 直前でぴたりと動きを止める。
「いいの? イギリス君」
「…………」
問い掛けにイギリスの閉ざされた瞼が一瞬震えた。だが彼はやはり目を開けようとはしない。
ロシアの眼前で馬鹿みたいに無防備に力を抜いてソファに横たわり、大人しくされるがままでいようとしている。
信じられているのだろうか?
どうせ何もしない、とタカをくくっているのだろうか。
それとも触れられて構わないとでも?
あのイギリスが、自分なんかに?
ざわざわと背筋が粟立つ。
凶暴な捕食者としての本能が目の前の獲物に爪を立てようとしていると思った。
誰だったろう、セックスは食事のようだと言ったのは。確かにどちらも抗いがたい欲望であり衝動だ。喰らい尽すまできっとこの名もない感情は行方を知らないまま自分を蝕むだろう。
あぁでも。
きっと触れたら終わってしまうんだろうな、と思う。
せっかく手に入れた小さな小さな何かが跡形もなく壊れてしまうに違いない。
大好きな紅茶も、居心地のいい距離も、ときどき感じる温もりも。
ずっとずっと昔から恋をしていたひだまりのような気配も。
一度でも触れてしまったら、境界線を越えてしまったら、壊れて、そしてもう二度と手に入らなくなるに違いない。今までもそうだった。欲しいと思って触れたものは全部壊れた。文字通り跡形もなくバラバラになってしまったのだ。
寒くて寂しくて、真っ白な雪の中でただ凍えていることしか出来なかった、あんな日々にはもう戻りたくはない。求めても得られない歯痒さに泣いていた自分など思い出したくもない。
今ここでイギリスに手を出したら、きっと彼はロシアを許さないだろう。こうやって傍にいることを許し許されているような今の立場は、存在しなかったかのように消えてしまうのだ。
どうせいつかは終わりが来るというのに、何も今、無理に手放してしまう必要なんてどこにもない。あと少しだけ、タイムリミットが来るその日まで、傍にいられればいいと最初から割り切っていたはずだ。
世界は変わる。
どうせまた世界は移り変わるのだ。
敵になって味方になって、そしてまた敵になる。そうやって今までずっとずっと長い時を過ごしてきた。何度も繰り返し繰り返し傷付け憎み合って来た。
抗いようのない時代の流れの残酷さを知らないほど子供じゃない。それは自分たち国が背負わなければならない、永遠に変わることのないものだ。
「……毛布、持って来てあげるね」
乗り上げたソファから静かに膝をおろして、ロシアはイギリスから離れた。
無意識に握りしめていたタイを申し訳なさそうに彼の胸の上に置くと、そのまま部屋を出て行こうと踵を返す。
窓の外は夕日に染められてどこまでもどこまでもオレンジ色だった。
きれいだな、と思って歩き出そうとしたロシアは、だが急に伸びて来た手に洋服の裾を捉われて思わず足を止める。怪訝そうに振り返ると、あれだけ頑なに寝たふりを決め込んでいたイギリスの両目が開き、まっすぐに射るような眼差しを投げかけていた。
深い緑色の目がためらいを感じさせずにロシアの姿を映す。
「ロシア」
「なに? 毛布いるでしょ?」
「いらない。……ここにいろ」
「どうして?」
不思議に思って問いかけると、ゆっくりと上半身を起こしながらイギリスは、自分が頭を乗せていたクッションを手に取りロシアに向かって思い切り投げつけてきた。
受け止められなかったそれが音もなく床に落ちる。
「どうしたの?」
苦笑を浮かべながらロシアは足元に転がるクッションを拾い上げ、そこに描かれたテディベアのつぶらな目に視線を合わせた。
これ以上あまり話したくないと思った。相手が誰であろうと問い詰められるような真似は性に合わない。さきほどの自分の行動に対して恐らく機嫌を損ねているであろうイギリスが、何かを言い出す前にさっさとこの場から立ち去りたかった。
「紅茶、淹れてくる。君はミルクティーがいいのかな?」
「ここにいろって言ってんだろ」
イギリスは立ち上がるとロシアの手にしたクッションを取り上げ、邪魔だと言わんばかりにソファに放り投げた。その眼が剣呑な色を浮かべている。
そんな彼のまっすぐ睨みつけて来る眼差しの強烈さに、ロシアは在りし日の姿を思い出して少しだけ懐かしさを感じた。今のイギリスは確かに国連の常任理事国でありG7およびG8のメンバーなのだが、発言力の大きさに比べてだいぶ大人しくなってきている。以前の彼はもっと苛烈で冷酷で、さらに攻撃的かつ能面のような無表情さを合わせ持っていた。
それが近年ではだいぶ丸くなり、緩くなって来ている。そもそも戦争続きだった昔とは緊張感が大いに違うので、どの国も、それこそロシアでさえすっかり大人しいと評されるようになっていた。
だが決して衰えたわけではない。激情を表に出す必要がなくなっただけで、その本性は未だに潰えることのない凛とした存在なのだ。
イギリスは、相手の意図が掴めずぼんやりと佇んだままのロシアの腕を引き、無理やり二人でソファに腰をおろした。三人がけ用ではあるが、男二人が並んで座るには少々狭いと感じる。
長い話は嫌だなぁ、と思って小さく溜息をついていると、そんなロシアの気持ちなどまるで無視してイギリスは言い放った。
「毛布はお前だ」
「え?」
「膝貸せ」
偉そうに宣言するとイギリスはクッションをぎゅっと抱きしめて、そのままロシアの膝に頭を乗せた。まるで子供のような無邪気さでもぞもぞと頭の位置を定めると、満足げに口元に笑みを浮かべて再び両目を閉ざす。
じわりとした温かな体温が間近に感じられ、戸惑った表情のままロシアは真下に横たわる金色の頭を見下ろした。
「なにこの態勢」
「うっせ、黙ってろ」
「横暴だなぁ」
唇を尖らせて文句を言えば、くすくすと笑い声が聞こえてくる。そのたびに震動が伝わりなんだかこちらまでくすぐったい気分にさせられた。
こんなこと、本当だったら自分たちには一番似合わないはずなのに。
耳の下、首筋をそっと指先で辿っていき、頸動脈を上から押さえてみるととくとくと温かい音が聞こえるようだった。
イギリスは軽く肩を竦めてぐりぐりと足の上に額を押し当ててくる。抱き締められた熊が潰れて非難がましい目を向けてくるが気にしない。
薄いシャツの肩が寒そうだったので手のひらでそっと包み込んでみると、与えられた体温に満足したのか動くのをやめて本格的に寝入ろうとしていた。
穏やかな呼吸に導かれるようにロシアもそっと瞳を閉ざすと、どこか遠くで夕暮れを告げる鳥の声が聞こえた。
それと共に優しく柔らかな子守唄がひそやかに流れる。
あぁ、本当に。
彼が自分だけのものになればいいのに。
ずっとこうやって、誰にも邪魔されずに二人だけでいられたらいいのに。
「……だよ、イギリス君……」
呟いた言葉は自分にも彼にも永遠に届かない。
それなのに、気持良さそうに両目を閉ざしながらイギリスは、まるで何もかも分かっているかのように小さく頷いた。
さぁ、明日はどこへ行こうか。
二人で並んで歩けるのは、あと何回なんだろう。
たくさんいろんなものを見て、たくさん話して、そして。
君の淹れた紅茶の味を、この先もずっとずっと覚えていられたらいいのにな。
PR