紅茶をどうぞ
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二人の距離
(「パラノイア」の続編になります)
丁度会談があった日に、早咲きのバラの蕾が開いたので自宅に日本を誘ってみた。
彼は相変わらず穏やかな笑みと共にイギリスの庭園を誉め、快く承知してくれる。新作紅茶とパートリッジのショートブレットを用意して、さっそく小さな茶会を開いた。
「最近、ロシアさんとご一緒する事が多いそうですね」
ふと、途切れた会話の隙間に入り込んでくるようななにげない日本の一言に、イギリスは向かいに座って紅茶のカップを傾けていた手を止め、宙に浮いたそれをソーサーに戻した。
かちりと陶器の触れ合う音に合わせて、日本の黒い瞳が伏せ目がちに細められる。
質問と言うよりも確認するようなその言い方が、常の彼らしくないと感じた。
「紅茶が飲みたいと言うから、淹れてやるだけだ」
「イギリスさんの紅茶は絶品ですからね」
にこりと微笑んで日本は丁寧な手付きで茶器を取った。
上品に口元に運ぶ姿をじっと見ていると、彼特有の底の見えない眼差しを向けられる。
別に後ろめたい事があるわけではなかったが、イギリスは思わず肩を竦めて見せた。
「お前もアメリカも、ロシアのこととなると過敏に反応するんだな」
「以前はイギリスさんもそうでした」
「あぁ……そうだな、俺もそうだった。嫌いであるがゆえに気になるというのはありがちなことだ」
「でも今は違う?」
「否定はしない」
これがもしアメリカ相手ならば、こんなふうに真っ当な会話にはならないだろう。ロシアが絡めば必ずと言って良いほど不機嫌になる。あからさまな態度には攻撃性が窺えて、ある意味それは正しくもあり珍しくもあった。
WW2から冷戦にかけて、自分達はロシアを強く警戒し続けてきた。あの国は信用がならない。社会主義は資本主義の敵だと言う認識を強めてきた。
まして日本は隣国ということもあり、北部の国境線をつねに侵され続けた過去を持つ。一説では「ロシアアレルギー」などと呼ばれるほど拒否反応を示していた時期もあった。今でこそ国交も正常化され互いに交流もあるようだが、それでも透明な壁があるように思う。どの国ともそれなりに上手くやっていける日本が、恐らく苦手とする最たる国と言えるのかもしれない。
「英国と露国の間にはいさかいが絶えないよう、お見受けしますが」
「そうだな。資源問題からスパイ事件まで抱えて、俺達はある意味アメリカやお前のところ以上に仲が悪いだろう」
「それなのに、お茶の席を設けるのですか?」
「あぁ。俺はあいつと過ごす時間を気に入っている」
隠し立てする必要を感じなかったので正直にそう答えた。
恐らくロシア嫌いの日本は眉を顰める事だろう。アメリカほどではないにせよ、心中快く思わないに違いない。
それでも今はプライベートな時間であり、口にした情報は外交上重要性のあるものでもない。あくまでここだけの話だ。
「そう、ですか」
花柄のティーカップを指先でそっと撫でながら、日本は目線を落として頷いた。
口元には相変わらず感情の見えないアルカイックスマイルが浮いている。
「この間、ロシアさんにお会いしました」
「そうか」
「今、貴方にした質問を彼にもしてみたのですが」
「……」
「外交を有利にするための単なる会談だと言われました。好悪の問題ではないと」
あくまで仕事の一環、という感じでした。
そう言われて、少しだけ……ほんの少しだけ寂しく思ったのは気の迷いに違いない。誰に言われるまでもなくそんなことは分かりきっている。今更指摘されるほどのことでもない。
ふ、っと軽く吐息を漏らし、イギリスはティーポットを手に取った。
かすかな水音と共に、日本と自分のカップに琥珀色の液体を注いでいく。
「まぁ、そんなとこだろうな。あいつがなんの打算もなく俺と茶を飲むなんて、ありえないからな」
あのロシアがお茶飲み友達なんて柄じゃないのは確かだ。
その方が自然であり、むしろお友達でした、などという方がもっとずっと気持ちが悪い。
―――― たぶん、それが正しいはずなのだ。
紅茶の満たされたカップを引き寄せると、イギリスは漂う香りに目を細めて小さく笑みを浮かべた。
先日ハロッズで見掛けてはじめて購入したセイロンだったが、かなり気に入っている。
「イギリスさん」
「なんだ?」
「ロシアさんは……社交辞令が苦手な方です」
「あぁ、まぁそうだろうな」
「好きなものは好き、嫌いなものは嫌いとはっきりおっしゃいます。楽しい事は楽しい、つまらない事はつまらないと」
「確かにあいつは遠慮ってもんを知らないな。その点はアメリカに似てる」
子供っぽいよなぁ、本当に。そう言って笑い飛ばすと日本は、ほんのり苦笑を浮かべてそのまま黙ってしまった。伏せ目がちはいつものこととは言え、なんとなく違和感を感じる。
怪訝そうにどうしたのかと声を掛ければ曖昧に言葉を濁し、日本はそつなく非礼を詫びて、それからはまた別の話題へと移行していく。
結局、彼がロシアについて何を言いたいのか良く分からないままだった。
日本が自宅へ帰り着くと、そこには見慣れない大きな人物が無遠慮に縁側に腰掛けている姿があった。
一体どこから入り込んだのだろう。深く溜息をついて歩み寄れば、ぼんやりと空を見ていたロシアが気付いてこちらを向いた。
お邪魔してるよ、と笑顔で言われても嬉しくはない。
「不法侵入しないで下さい」
「え、でも小さな女の子が招き入れてくれたよ?」
「私は一人暮らしです」
突拍子もないロシアの発言に呆れたように言い返せば、きょとんと子供のような顔をされる。彼は数秒悩むように顎に指を当てて、それからあぁ、と一人で納得したように頷いて見せた。
「君、見えないんだ」
「なんのことですか?」
「ううん、別に。そんなことよりお茶が欲しいな」
「相変わらず客人でもないのに図々しいですね」
溜息混じりにそう言いながら、日本は座敷に上った。お湯を沸かしながら緑茶の缶と紅茶の缶を取り出す。縁側から移動してきたロシアを振り返りながら、一応好みを聞いてみる。
「どちらがいいですか?」
「緑茶」
「そうですか」
紅茶を戸棚に戻してから、馴れた手付きで急須と湯のみを用意し始める日本に、ためらいなくロシアの手が伸びてくる。
気配に気付いて思わず後じさりそうになりながらも、相手が危害を加えないことを察して大人しく見上げた。色の薄い瞳が静かに落ちてきて、そのままするりと頬を撫でられる。その手のあまりの冷たさに知らず肌が粟立った。
「イギリス君の香りがするね」
「お会いしてきましたから」
「そう」
すり、と寄せられた鼻先を払いのけるのは簡単だったが、日本は再び溜息をついて黙ってやりたいようにさせていた。まるで大きな犬に懐かれているような気がしないでもない。
ロシアの瞼がそっと閉ざされた。
「紅茶と、バラの香りだ」
「お会いになりたいのでしたら行かれればいいでしょう」
「うん。でもあまり頻繁だといろいろと煩くて」
「……」
ロシアとイギリスが接触する事を快く思わない国は多い。
冷戦が終わりソ連が崩壊した今でもそれは変わらなかった。お互いの国民はそうでもなかったが、上司達の思惑はまったく違うところにある。
深入りしない程度の付き合いを誰もが望んでいた。
「言われなくても分かってるのになぁ。あんなちっちゃな島国、いまさら別にいらないし」
「小さくて済みませんね。早く北方領土を返して下さい」
「嫌だなぁ、日本君のことじゃないよ。まぁ君もちっちゃいけど」
「……ロシアさん」
日本は今日、何度目の溜息か分からなかったが、再度深々と息を吐いてロシアの俯いた頭をそっと撫でた。
柔らかく指通りの良い白金髪がさらさらと流れる。ロシアは何も言わず日本の肩に額を当てていた。
「素直じゃない貴方なんて、価値なしですよ」
「酷いなぁ、日本君。冷たいこと言わないでよ」
「貴方があまりにも貴方らしくないから悪いんです」
「僕らしくないかな?」
「ええ、とっても。我慢するなんて貴方らしくありません」
やや辛辣に言い切ると、ロシアは顔を上げて困ったように笑った。
いつもとは違う、どこか諦めたようなそれはどう考えても彼らしくない。欲しいものは欲しいと貪欲に笑っていたロシアとは大きくかけ離れていた。
なんでも飲み込んでしまおうとしていたかつての彼は、それはそれで周囲に悪影響しか与えず迷惑だったが、こんなふうに途方に暮れた子供のような顔をされても困る。
―――― 思わず可哀相になってしまうではないか。
「お好きなのでしょう?」
「別に好きじゃないよ」
「嘘おっしゃい。お好きでしょう、イギリスさんのこと」
「違うよ。好きじゃない。嫌いだよ。大っ嫌い」
いつだって南下政策を阻んで邪魔ばかりして、尊大な態度でロシアの神経を逆なでするのがイギリスだった。だからロシアは昔から彼の事が心底嫌いでたまらない。
それなのに、ふとしたきっかけで淹れてくれた紅茶は温かかった。髪を撫でてくれた手も、躊躇いがちに繋がれた手も、そして向けられた笑顔も。みんなみんなロシアが欲しいと望んでいたものばかりだった。
知らなければ良かった。
知らなければ、こんなにも欲しいだなんて思いもしなかったのに。
「……大嫌い」
言い聞かせるように呟いた声はぽつりと落ちて、日本の瞳が静かに揺れた。
「あ、お湯が沸いたみたい。早くお茶淹れてよ」
「……はいはい」
「お煎餅だっけ? あれも欲しいなぁ。日本君、お願いね」
ぽん、と肩を叩かれて日本は急須を手に取った。
視線を手許に移すとロシアが居間へと移動してゆく。遠ざかる大きな背中をちらりと見ると、なんとも言えず寂しそうで仕方がなかった。
過酷な歴史は彼を少しだけ大人に変えたのだろうか。
駄々をこねても手に入らないものがある。どんなに強い力もいずれは衰える日が来る。そして、望んでも変えられない未来があるということを、身をもって体験してきたのだ。
冷戦終結をもってロシアはアメリカに敗北した。それがどれほど大きな意味を持つのか、彼が分からないはずがない。
東西を隔てていた鉄のカーテンは取り除かれたのかもしれないが、それは単なる言葉のあやでしかなかった。打ち込まれた楔は未だ深く横たわっているのかもしれない。
西側と東側。それがなんだと言うのだろう。日本からしてみれば欧州の争いの歴史は未だに良く分からなかった。世界はたったの二つだけだと思っているのだろうか。
「私は、貴方の笑顔が好きなんですけどね…」
屈託なく笑うロシアの顔を始めて見た時、迂闊にも見惚れてしまったことを思い出す。そしてその笑顔を向けられた相手がイギリスだと知った時の驚きは、言葉ではとても言いあらわせられないものがあった。
あんなふうに彼が笑えると言う事を、きっと誰も……恐らくイギリス以外は知らないに違いない。だからこそイギリスもロシアを気に掛けるのだろうし、構ってしまうのだろう。
あの笑顔は反則だ。
日本は少しだけ口元を緩めると、リクエスト通り日本茶と煎餅を盆に乗せ、ふと思いついたようにバラのジャムを冷蔵庫から取り出した。
そして土産に貰ったスコーンも用意する。
素直になれない彼のために、せめて英国の香りだけでも届けてあげよう。
そして紅茶が恋しくなったら遠慮なく会いに行けば良いのだ。きっとイギリスは不器用な笑顔とともに迎えてくれるに違いない。
―――― それよりも、もしかして。
ふと感じた予感を胸に居間へと歩き出すと、小さくロシアの携帯が鳴るのが聞こえた。
丁度会談があった日に、早咲きのバラの蕾が開いたので自宅に日本を誘ってみた。
彼は相変わらず穏やかな笑みと共にイギリスの庭園を誉め、快く承知してくれる。新作紅茶とパートリッジのショートブレットを用意して、さっそく小さな茶会を開いた。
「最近、ロシアさんとご一緒する事が多いそうですね」
ふと、途切れた会話の隙間に入り込んでくるようななにげない日本の一言に、イギリスは向かいに座って紅茶のカップを傾けていた手を止め、宙に浮いたそれをソーサーに戻した。
かちりと陶器の触れ合う音に合わせて、日本の黒い瞳が伏せ目がちに細められる。
質問と言うよりも確認するようなその言い方が、常の彼らしくないと感じた。
「紅茶が飲みたいと言うから、淹れてやるだけだ」
「イギリスさんの紅茶は絶品ですからね」
にこりと微笑んで日本は丁寧な手付きで茶器を取った。
上品に口元に運ぶ姿をじっと見ていると、彼特有の底の見えない眼差しを向けられる。
別に後ろめたい事があるわけではなかったが、イギリスは思わず肩を竦めて見せた。
「お前もアメリカも、ロシアのこととなると過敏に反応するんだな」
「以前はイギリスさんもそうでした」
「あぁ……そうだな、俺もそうだった。嫌いであるがゆえに気になるというのはありがちなことだ」
「でも今は違う?」
「否定はしない」
これがもしアメリカ相手ならば、こんなふうに真っ当な会話にはならないだろう。ロシアが絡めば必ずと言って良いほど不機嫌になる。あからさまな態度には攻撃性が窺えて、ある意味それは正しくもあり珍しくもあった。
WW2から冷戦にかけて、自分達はロシアを強く警戒し続けてきた。あの国は信用がならない。社会主義は資本主義の敵だと言う認識を強めてきた。
まして日本は隣国ということもあり、北部の国境線をつねに侵され続けた過去を持つ。一説では「ロシアアレルギー」などと呼ばれるほど拒否反応を示していた時期もあった。今でこそ国交も正常化され互いに交流もあるようだが、それでも透明な壁があるように思う。どの国ともそれなりに上手くやっていける日本が、恐らく苦手とする最たる国と言えるのかもしれない。
「英国と露国の間にはいさかいが絶えないよう、お見受けしますが」
「そうだな。資源問題からスパイ事件まで抱えて、俺達はある意味アメリカやお前のところ以上に仲が悪いだろう」
「それなのに、お茶の席を設けるのですか?」
「あぁ。俺はあいつと過ごす時間を気に入っている」
隠し立てする必要を感じなかったので正直にそう答えた。
恐らくロシア嫌いの日本は眉を顰める事だろう。アメリカほどではないにせよ、心中快く思わないに違いない。
それでも今はプライベートな時間であり、口にした情報は外交上重要性のあるものでもない。あくまでここだけの話だ。
「そう、ですか」
花柄のティーカップを指先でそっと撫でながら、日本は目線を落として頷いた。
口元には相変わらず感情の見えないアルカイックスマイルが浮いている。
「この間、ロシアさんにお会いしました」
「そうか」
「今、貴方にした質問を彼にもしてみたのですが」
「……」
「外交を有利にするための単なる会談だと言われました。好悪の問題ではないと」
あくまで仕事の一環、という感じでした。
そう言われて、少しだけ……ほんの少しだけ寂しく思ったのは気の迷いに違いない。誰に言われるまでもなくそんなことは分かりきっている。今更指摘されるほどのことでもない。
ふ、っと軽く吐息を漏らし、イギリスはティーポットを手に取った。
かすかな水音と共に、日本と自分のカップに琥珀色の液体を注いでいく。
「まぁ、そんなとこだろうな。あいつがなんの打算もなく俺と茶を飲むなんて、ありえないからな」
あのロシアがお茶飲み友達なんて柄じゃないのは確かだ。
その方が自然であり、むしろお友達でした、などという方がもっとずっと気持ちが悪い。
―――― たぶん、それが正しいはずなのだ。
紅茶の満たされたカップを引き寄せると、イギリスは漂う香りに目を細めて小さく笑みを浮かべた。
先日ハロッズで見掛けてはじめて購入したセイロンだったが、かなり気に入っている。
「イギリスさん」
「なんだ?」
「ロシアさんは……社交辞令が苦手な方です」
「あぁ、まぁそうだろうな」
「好きなものは好き、嫌いなものは嫌いとはっきりおっしゃいます。楽しい事は楽しい、つまらない事はつまらないと」
「確かにあいつは遠慮ってもんを知らないな。その点はアメリカに似てる」
子供っぽいよなぁ、本当に。そう言って笑い飛ばすと日本は、ほんのり苦笑を浮かべてそのまま黙ってしまった。伏せ目がちはいつものこととは言え、なんとなく違和感を感じる。
怪訝そうにどうしたのかと声を掛ければ曖昧に言葉を濁し、日本はそつなく非礼を詫びて、それからはまた別の話題へと移行していく。
結局、彼がロシアについて何を言いたいのか良く分からないままだった。
* * * * * * *
日本が自宅へ帰り着くと、そこには見慣れない大きな人物が無遠慮に縁側に腰掛けている姿があった。
一体どこから入り込んだのだろう。深く溜息をついて歩み寄れば、ぼんやりと空を見ていたロシアが気付いてこちらを向いた。
お邪魔してるよ、と笑顔で言われても嬉しくはない。
「不法侵入しないで下さい」
「え、でも小さな女の子が招き入れてくれたよ?」
「私は一人暮らしです」
突拍子もないロシアの発言に呆れたように言い返せば、きょとんと子供のような顔をされる。彼は数秒悩むように顎に指を当てて、それからあぁ、と一人で納得したように頷いて見せた。
「君、見えないんだ」
「なんのことですか?」
「ううん、別に。そんなことよりお茶が欲しいな」
「相変わらず客人でもないのに図々しいですね」
溜息混じりにそう言いながら、日本は座敷に上った。お湯を沸かしながら緑茶の缶と紅茶の缶を取り出す。縁側から移動してきたロシアを振り返りながら、一応好みを聞いてみる。
「どちらがいいですか?」
「緑茶」
「そうですか」
紅茶を戸棚に戻してから、馴れた手付きで急須と湯のみを用意し始める日本に、ためらいなくロシアの手が伸びてくる。
気配に気付いて思わず後じさりそうになりながらも、相手が危害を加えないことを察して大人しく見上げた。色の薄い瞳が静かに落ちてきて、そのままするりと頬を撫でられる。その手のあまりの冷たさに知らず肌が粟立った。
「イギリス君の香りがするね」
「お会いしてきましたから」
「そう」
すり、と寄せられた鼻先を払いのけるのは簡単だったが、日本は再び溜息をついて黙ってやりたいようにさせていた。まるで大きな犬に懐かれているような気がしないでもない。
ロシアの瞼がそっと閉ざされた。
「紅茶と、バラの香りだ」
「お会いになりたいのでしたら行かれればいいでしょう」
「うん。でもあまり頻繁だといろいろと煩くて」
「……」
ロシアとイギリスが接触する事を快く思わない国は多い。
冷戦が終わりソ連が崩壊した今でもそれは変わらなかった。お互いの国民はそうでもなかったが、上司達の思惑はまったく違うところにある。
深入りしない程度の付き合いを誰もが望んでいた。
「言われなくても分かってるのになぁ。あんなちっちゃな島国、いまさら別にいらないし」
「小さくて済みませんね。早く北方領土を返して下さい」
「嫌だなぁ、日本君のことじゃないよ。まぁ君もちっちゃいけど」
「……ロシアさん」
日本は今日、何度目の溜息か分からなかったが、再度深々と息を吐いてロシアの俯いた頭をそっと撫でた。
柔らかく指通りの良い白金髪がさらさらと流れる。ロシアは何も言わず日本の肩に額を当てていた。
「素直じゃない貴方なんて、価値なしですよ」
「酷いなぁ、日本君。冷たいこと言わないでよ」
「貴方があまりにも貴方らしくないから悪いんです」
「僕らしくないかな?」
「ええ、とっても。我慢するなんて貴方らしくありません」
やや辛辣に言い切ると、ロシアは顔を上げて困ったように笑った。
いつもとは違う、どこか諦めたようなそれはどう考えても彼らしくない。欲しいものは欲しいと貪欲に笑っていたロシアとは大きくかけ離れていた。
なんでも飲み込んでしまおうとしていたかつての彼は、それはそれで周囲に悪影響しか与えず迷惑だったが、こんなふうに途方に暮れた子供のような顔をされても困る。
―――― 思わず可哀相になってしまうではないか。
「お好きなのでしょう?」
「別に好きじゃないよ」
「嘘おっしゃい。お好きでしょう、イギリスさんのこと」
「違うよ。好きじゃない。嫌いだよ。大っ嫌い」
いつだって南下政策を阻んで邪魔ばかりして、尊大な態度でロシアの神経を逆なでするのがイギリスだった。だからロシアは昔から彼の事が心底嫌いでたまらない。
それなのに、ふとしたきっかけで淹れてくれた紅茶は温かかった。髪を撫でてくれた手も、躊躇いがちに繋がれた手も、そして向けられた笑顔も。みんなみんなロシアが欲しいと望んでいたものばかりだった。
知らなければ良かった。
知らなければ、こんなにも欲しいだなんて思いもしなかったのに。
「……大嫌い」
言い聞かせるように呟いた声はぽつりと落ちて、日本の瞳が静かに揺れた。
「あ、お湯が沸いたみたい。早くお茶淹れてよ」
「……はいはい」
「お煎餅だっけ? あれも欲しいなぁ。日本君、お願いね」
ぽん、と肩を叩かれて日本は急須を手に取った。
視線を手許に移すとロシアが居間へと移動してゆく。遠ざかる大きな背中をちらりと見ると、なんとも言えず寂しそうで仕方がなかった。
過酷な歴史は彼を少しだけ大人に変えたのだろうか。
駄々をこねても手に入らないものがある。どんなに強い力もいずれは衰える日が来る。そして、望んでも変えられない未来があるということを、身をもって体験してきたのだ。
冷戦終結をもってロシアはアメリカに敗北した。それがどれほど大きな意味を持つのか、彼が分からないはずがない。
東西を隔てていた鉄のカーテンは取り除かれたのかもしれないが、それは単なる言葉のあやでしかなかった。打ち込まれた楔は未だ深く横たわっているのかもしれない。
西側と東側。それがなんだと言うのだろう。日本からしてみれば欧州の争いの歴史は未だに良く分からなかった。世界はたったの二つだけだと思っているのだろうか。
「私は、貴方の笑顔が好きなんですけどね…」
屈託なく笑うロシアの顔を始めて見た時、迂闊にも見惚れてしまったことを思い出す。そしてその笑顔を向けられた相手がイギリスだと知った時の驚きは、言葉ではとても言いあらわせられないものがあった。
あんなふうに彼が笑えると言う事を、きっと誰も……恐らくイギリス以外は知らないに違いない。だからこそイギリスもロシアを気に掛けるのだろうし、構ってしまうのだろう。
あの笑顔は反則だ。
日本は少しだけ口元を緩めると、リクエスト通り日本茶と煎餅を盆に乗せ、ふと思いついたようにバラのジャムを冷蔵庫から取り出した。
そして土産に貰ったスコーンも用意する。
素直になれない彼のために、せめて英国の香りだけでも届けてあげよう。
そして紅茶が恋しくなったら遠慮なく会いに行けば良いのだ。きっとイギリスは不器用な笑顔とともに迎えてくれるに違いない。
―――― それよりも、もしかして。
ふと感じた予感を胸に居間へと歩き出すと、小さくロシアの携帯が鳴るのが聞こえた。
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