紅茶をどうぞ
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開かずの扉 4
イギリスは一人、雪の降る自宅の庭を眺めながら妖精たちの歌声に包まれて、淹れたてのミルクティーをそっと傾けていた。相変わらずハロッズで買い求めたアッサムは香りがいい。
ゆったりとソファにもたれて両目を閉ざせば、思い出すのは先日のこと。バレンタインチョコレートを持ってわざわざロシアの家に出向いたおかげで、会えないと思っていた本人に会うことが出来たのだ。顔を見ることも叶わないと諦めきっていた矢先だったので、ものすごく嬉しかった。
駄目なものは駄目、という判別はちゃんと付いているつもりでも、やっぱり好きだと思う相手と一秒でも長く一緒にいたいと思うのは別におかしなことではないだろう。
ロシアとは積年の関係からあまり表立って親しくするのは憚れたし、国際情勢がそれを許さない場合もままあるので、これまでも思うようにいかないことは多かった。
今回も仕事かプライベートなのかは関係なく、ロシアが無理だと連絡をして来た時はすぐに「あぁまたか」と思ったりもした。けれど募る不満をぐっと押し殺して無理やり自身を納得させて来たのだ。我侭を言って相手を困らせても事態は動かず何の解決も見出せないし、迷惑に思われて傷つくのは自分自身だということも百も承知している。
だからこそ思いもかけない幸運に恵まれて本当に嬉しく思ったものだ。誰からも祝福されることのない二人の関係を、それこそ女神ユノにでも認めてもらえたような気分がしてたまらなく幸せだった。
これまで感じて来たイギリスの中の様々なマイナス要素を、全て吹き飛ばしてくれたと言っても過言ではない。他人が聞けば少々大袈裟に聞こえるかもしれなかったが、それくらい自分達を取り巻く環境は厳しいものなのだ。
「聞きたかった言葉もちゃんと聞けたし、本当にいい夜だった」
女々しい思考回路だと笑われても、あのロシアからたった一言もらえただけでこんなにもだらしなく顔が緩んでしまうのだから、どうしようもない。
躊躇って何度もボツにしながらも、メッセージカードに恥ずかしい言葉を書いた甲斐があったと言うものだ。やはり素直な気持ちを正直に伝えれば、それに見合ったプレゼントが貰えるということだろうか。
それでも、ここで簡単に甘い夢に浸っていてはいけないと思う。単純にロシアの言葉を真に受けて、本気にしすぎて泥沼にはまり込まないように注意をしなければならない。
たとえ今はロシアの意識がこちらに向いていたとしても、いつ何時自分達を取り巻く環境が悪化するかは分からなかった。この先政情不安に陥って、再び英露間の外交が断絶することだってあり得るのだ。のんびりお茶を飲んだり笑いあったりする時間も取れなくなる日が来るだろう。
その時にずるずると想いを引きずることがないように気をつけなければならない。間違っても自分の感情を優先させることだけは自重しなければならなかった。
どんなにネガティブ思考だと言われようと、これだけは絶対に守っていかなければならない『国』としての責務だと思っている。アメリカの時のような失敗は二度と許されない。上司を含め国民にわずかなりとも不利益があってはならないのだ。
『ねぇねぇイギリス、ロシアにちゃんと会えてよかったわね』
妖精の一人が声を掛けて来たので、イギリスは暗い思いを振り切るように穏やかに笑って頷いた。
「あぁ」
『でも忙しいってメールが来ていたんでしょう?』
「それがな、あれ、あいつの妹の悪戯だったんだ」
『悪戯?』
不思議そうに小首をかしげる彼女に向けて大きく頷いて、イギリスは半分ほどになった紅茶のカップをゆっくりと指先で撫でた。ミントンの温かみのある曲線が滑らかになじむ。
「どうもあいつの妹がロシアにチョコレートを渡すために、その日の外出を阻止したかったらしい」
『へぇ。それは随分とお兄ちゃん子なのね』
「可愛いよなぁ。まぁ勝手に人の携帯を覗いてメールの遣り取りをするのは良くないけどな。その点を差し引いても仲睦まじい兄妹って感じで微笑ましいじゃねーか」
自分の環境と照らし合わせてそんなことを言うイギリスに、妖精たちは慰めるように優しく羽根を震わせた。ここブリテン島の兄弟が不仲なのはもう何百年も前からの常識と化している。今さら傷付きようのない事実だったが、気に懸けてもらえるのは素直に嬉しかった。
『ロシアの妹ならきっと綺麗な子でしょうね』
「おう。ちょっときつめのすっげー美人。しかも胸もでけーし……って!」
妹相手に何言ってんだ俺はああああ!とイギリスが頭を抱えながら叫べば、妖精たちは楽しそうに笑い声を上げた。『しょうがない子ねぇ』とからかい混じりの言葉がいくつも投げかけられ、顔が真っ赤になってしまう。
彼女達はロシアとも仲が良いので、告げ口されないように次に彼が来る前に口止めしておかなければならい。我ながらとんだ失態だ。
「まぁとにかく! 会えたからいいんだ」
苦手な冬将軍の力を借りてまで、必死に自分を追い駆けて来てくれた……ただその事実だけで、自分はこの上なく満足だった。
等価値として他者に興味を持つことのない男が、少しでもその意識の範疇にイギリスの存在を受け入れてくれているのなら、それだけで嬉しいと思わなくてはならない。ロシアの性格上、下手をすればすぐに忘れられてしまってもおかしくはないのだ。
自分達の関係は常に希薄で危ういところにある。まるで薄い氷の上を歩いているかのように脆いもので、ちょっとした衝撃を受ければきっと粉々に砕け散ってしまうだろう。
ベラルーシの悪戯メールで相当なダメージを受けたことは間違いなかったが、思いがけないロシア自身の心情を垣間見ることが出来たのは、ラッキー以外の何ものでもない。息を切らせて顔を赤らめて駆け寄って来る姿なんて、本当にいいものを見られた。
たぶん一生の思い出になるだろう。
『良かったわね、イギリス』
「お、おう」
照れながら頷いて、残りの紅茶を飲み干してからイギリスはカップを置いた。それから携帯電話を取り出して小さなボタンを操作しはじめる。
送信先はもちろん『恋人』。
さぁ ―――― 次の約束はいつにしよう?
その扉はたぶん開けてはならないものなのだろう。
二人を隔てる固くて頑丈なその扉を開けてしまってはいけない。
これ以上近付いて、触れ合って、分け与えてはいけない。
そうでなければ、いつしか元に戻れなくなってしまうに違いないのだから。
それでもこのまま立ち止まっていることなんて出来やしなかった。
あと少し、あと少し。
ほんのちょっと指先を伸ばせば届く距離にあるというのなら、自分はためらわずにそのドアを開けて中へと飛び込んでしまうのだろう。
ロシアは一人、ソファに座りながら手の内におさまる小さなカードをじっと眺めていた。
薄紫色の柔らかな色彩の上等な紙に、万年筆の美しい筆記体が軽やかに踊っている。メッセージはたった一言、恥ずかしいまでにストレートな言葉であった。
イギリスからバレンタインのチョコと共に貰ったそれは、彼には珍しいほど飾り気のないもので、だからこそ余計ダイレクトにロシアの心に響く。
自分の気持ちを伝えるのが大の苦手なイギリスが、この『I love you』の文字ひとつを書くことにどれほど時間をかけたのだろうと、想像するだけで知らず笑みが浮んでくるほどだった。
あの日、わざわざこの極寒の地まで赴いてくれた彼に、このカードと同じ言葉を返してみれば、そのまま真っ赤になって泣きそうな顔で喜んでくれた。
それから二人で温かい紅茶を飲み、キスをして、抱き締めあって眠った。朝が来なければいいと思ったのはあの日が初めての事だったかもしれない。それほど嬉しかったのだ。
不器用ゆえにはっきりと自分の気持ちを表に出さないイギリスが、ちゃんと言葉にしてくれた。それだけで今回のバレンタインデーはかなり貴重な体験だったと言えよう。
―――― 作戦は見事、成功したのだ。
「兄さん、嬉しそう」
ベラルーシが紅茶を手に近付いてくる。英国の有名百貨店で販売されているそれは、以前イギリスが手土産と称して買って来てくれた物だ。
味も香りも彼のお墨付きで、ロシアもとても気に入っている。
「ベラルーシには悪いことしちゃったかな」
「別に。兄さんが幸せなら構わない」
「イギリス君を騙すことになっちゃったけど、まぁしょうがないよね」
「それくらいなんでもないはず。兄さんの愛を受けられるのだから」
あの時のメール。
イギリスが寄越したメールに咄嗟に嘘の返信をした。日頃からなんだかんだと考えを廻らせている彼が、特別なイベントを急にキャンセルしたらどういう行動に出るのだろうかと、興味本位で仕掛けた嘘だ。
怒るだろうか、それとも悲しむだろうか。昔のように罵声を浴びせてさんざん詰るだろうか。付き合いきれないと離れていくのだろうか。
そんなことを思いながら、結局なんの進展もないまま当日を迎えた。
それなのにあの日、彼は吹雪の中わざわざモスクワまで来た挙句、呼び鈴を鳴らすこともなく帰ろうとしたのだ。小さな紙袋ひとつを置き去りにして、なんともご苦労なことだと思う。
ロシアにはそんなイギリスの気持ちなど欠片も分からないし、彼がどういう考えで動いているのかもさっぱり分からなかった。きっと尋ねても理解出来ないししたいとも思わない。
彼は自分に会いたかったと言った。会えて嬉しかったとも言った。ならば何故もっと早く電話でもしてちゃんとこちらの予定を確認しなかったのだろう。たかがメールのそっけない一言で簡単に納得してしまったくせに、凍てついた風の中どうしてこんな所にまで足を運んで来たりしたのだろうか。
イギリスは会うたびに不安そうな目をしていて、そのくせ現状に満足しきった表情でただ笑ってばかりいる。正直どうして欲しいのか、どうすればいいのかロシアにだって分からない。
けれどこちらとしては願うことは唯一つきりなのだから、それさえ得られれば他はどうでも良かった。ロシアにとっては結果だけが重要で、その過程などいつだって無意味に等しいと感じている。
「この先もイギリス君が、ずっとずっと僕だけを好きでいてくれたらいいのになぁ」
「そんなに欲しいなら侵略すればいいのに」
「それじゃ駄目だよベラルーシ。僕は彼に自分の意思でここに来てもらいたいんだから」
この、極寒の大地、欧州の北の果てに自らの足で会いに来て欲しいのだ。
誰も望まない、誰もぬくもりをくれないこの国に、わざわざ雪まみれになりながらチョコレートひとつ届けに来たイギリスを、どんなに待ち望んでいたかなんてきっと誰にも分からない。
会いたいのを我慢して予定をキャンセルして、試すようなことをして、そうやって人の気持ちを確かめていかないとたぶん自分は不安なのだと思う。そしてそんな馬鹿みたいな行動を取らせてしまうほどイギリスは、ロシアにとって未だかつてないくらい不思議な存在だった。
「兄さんがいいならそれでいい」
「うん、僕はきっと今、とても幸せなんだと思うよ」
幸福の経験も定義も理解もないからそれが本当に幸せなのかどうかは分からないけれど、たぶん当たってるんじゃないだろうか。
支配とは違った形で傍にいるということ。その隣の温かさをはじめて教えてくれた人。触れ合う指先から伝わる熱に、この上もない衝動を沸き起こさせた存在。
何もかもが珍しくて綺麗で優しい、幻のような現実。
「この夢を終わらせない為なら、僕はなんだってする」
どんなに願っても叶わないと思っていた。だからこそ手に入れたその目に見えない何かを守ろうと子供のように無我夢中になる。手段はきっと選ばない、けれど全てを壊してしまうことのないように、出来るだけ注意は払っていくつもりだ。
これまでのやり方じゃきっと駄目になってしまうと、それくらいロシアだって気付いている。
いつでもどこでも、それこそ敵対している時でさえも、彼が自分を一番に想ってくれていればいいと、そう思う。
その為にはどんなことでもするつもりだ。たとえイギリスを騙そうが、傷つけようが、苦しめようが、そんなことは些細な問題で、欠片も気にしてなんかいられない。
少しずつ少しずつ侵食して、いつか彼の中を全部ロシアで埋め尽くせて行ければ……溢れるくらいにいっぱいにしてしまえれば。
イギリスが己を雁字搦めに縛る鎖に気付いて、苦しいともがき逃れようとしても、奥深くに刻みこんで絶対に消えない疵痕を遺すつもりでいる。泣いても喚いても赦しを乞うても、赤く染まった両手が宙を掻き毟ったとしても、彼が最後に想いを馳せ口にするのはロシアの名前でなければならないのだ。
ふと、テーブルに置いていた携帯電話が着信を告げる。ベラルーシが取って寄越す端末を開いて見れば、液晶画面にはイギリスの名前が浮かんでいた。
そっと気を利かせて妹が部屋を後にするのも気付かずに、ロシアは唇に笑みを浮かべてひどく優しい仕草で無機質な文字を指先でなぞった。
ゆったりとソファにもたれて両目を閉ざせば、思い出すのは先日のこと。バレンタインチョコレートを持ってわざわざロシアの家に出向いたおかげで、会えないと思っていた本人に会うことが出来たのだ。顔を見ることも叶わないと諦めきっていた矢先だったので、ものすごく嬉しかった。
駄目なものは駄目、という判別はちゃんと付いているつもりでも、やっぱり好きだと思う相手と一秒でも長く一緒にいたいと思うのは別におかしなことではないだろう。
ロシアとは積年の関係からあまり表立って親しくするのは憚れたし、国際情勢がそれを許さない場合もままあるので、これまでも思うようにいかないことは多かった。
今回も仕事かプライベートなのかは関係なく、ロシアが無理だと連絡をして来た時はすぐに「あぁまたか」と思ったりもした。けれど募る不満をぐっと押し殺して無理やり自身を納得させて来たのだ。我侭を言って相手を困らせても事態は動かず何の解決も見出せないし、迷惑に思われて傷つくのは自分自身だということも百も承知している。
だからこそ思いもかけない幸運に恵まれて本当に嬉しく思ったものだ。誰からも祝福されることのない二人の関係を、それこそ女神ユノにでも認めてもらえたような気分がしてたまらなく幸せだった。
これまで感じて来たイギリスの中の様々なマイナス要素を、全て吹き飛ばしてくれたと言っても過言ではない。他人が聞けば少々大袈裟に聞こえるかもしれなかったが、それくらい自分達を取り巻く環境は厳しいものなのだ。
「聞きたかった言葉もちゃんと聞けたし、本当にいい夜だった」
女々しい思考回路だと笑われても、あのロシアからたった一言もらえただけでこんなにもだらしなく顔が緩んでしまうのだから、どうしようもない。
躊躇って何度もボツにしながらも、メッセージカードに恥ずかしい言葉を書いた甲斐があったと言うものだ。やはり素直な気持ちを正直に伝えれば、それに見合ったプレゼントが貰えるということだろうか。
それでも、ここで簡単に甘い夢に浸っていてはいけないと思う。単純にロシアの言葉を真に受けて、本気にしすぎて泥沼にはまり込まないように注意をしなければならない。
たとえ今はロシアの意識がこちらに向いていたとしても、いつ何時自分達を取り巻く環境が悪化するかは分からなかった。この先政情不安に陥って、再び英露間の外交が断絶することだってあり得るのだ。のんびりお茶を飲んだり笑いあったりする時間も取れなくなる日が来るだろう。
その時にずるずると想いを引きずることがないように気をつけなければならない。間違っても自分の感情を優先させることだけは自重しなければならなかった。
どんなにネガティブ思考だと言われようと、これだけは絶対に守っていかなければならない『国』としての責務だと思っている。アメリカの時のような失敗は二度と許されない。上司を含め国民にわずかなりとも不利益があってはならないのだ。
『ねぇねぇイギリス、ロシアにちゃんと会えてよかったわね』
妖精の一人が声を掛けて来たので、イギリスは暗い思いを振り切るように穏やかに笑って頷いた。
「あぁ」
『でも忙しいってメールが来ていたんでしょう?』
「それがな、あれ、あいつの妹の悪戯だったんだ」
『悪戯?』
不思議そうに小首をかしげる彼女に向けて大きく頷いて、イギリスは半分ほどになった紅茶のカップをゆっくりと指先で撫でた。ミントンの温かみのある曲線が滑らかになじむ。
「どうもあいつの妹がロシアにチョコレートを渡すために、その日の外出を阻止したかったらしい」
『へぇ。それは随分とお兄ちゃん子なのね』
「可愛いよなぁ。まぁ勝手に人の携帯を覗いてメールの遣り取りをするのは良くないけどな。その点を差し引いても仲睦まじい兄妹って感じで微笑ましいじゃねーか」
自分の環境と照らし合わせてそんなことを言うイギリスに、妖精たちは慰めるように優しく羽根を震わせた。ここブリテン島の兄弟が不仲なのはもう何百年も前からの常識と化している。今さら傷付きようのない事実だったが、気に懸けてもらえるのは素直に嬉しかった。
『ロシアの妹ならきっと綺麗な子でしょうね』
「おう。ちょっときつめのすっげー美人。しかも胸もでけーし……って!」
妹相手に何言ってんだ俺はああああ!とイギリスが頭を抱えながら叫べば、妖精たちは楽しそうに笑い声を上げた。『しょうがない子ねぇ』とからかい混じりの言葉がいくつも投げかけられ、顔が真っ赤になってしまう。
彼女達はロシアとも仲が良いので、告げ口されないように次に彼が来る前に口止めしておかなければならい。我ながらとんだ失態だ。
「まぁとにかく! 会えたからいいんだ」
苦手な冬将軍の力を借りてまで、必死に自分を追い駆けて来てくれた……ただその事実だけで、自分はこの上なく満足だった。
等価値として他者に興味を持つことのない男が、少しでもその意識の範疇にイギリスの存在を受け入れてくれているのなら、それだけで嬉しいと思わなくてはならない。ロシアの性格上、下手をすればすぐに忘れられてしまってもおかしくはないのだ。
自分達の関係は常に希薄で危ういところにある。まるで薄い氷の上を歩いているかのように脆いもので、ちょっとした衝撃を受ければきっと粉々に砕け散ってしまうだろう。
ベラルーシの悪戯メールで相当なダメージを受けたことは間違いなかったが、思いがけないロシア自身の心情を垣間見ることが出来たのは、ラッキー以外の何ものでもない。息を切らせて顔を赤らめて駆け寄って来る姿なんて、本当にいいものを見られた。
たぶん一生の思い出になるだろう。
『良かったわね、イギリス』
「お、おう」
照れながら頷いて、残りの紅茶を飲み干してからイギリスはカップを置いた。それから携帯電話を取り出して小さなボタンを操作しはじめる。
送信先はもちろん『恋人』。
さぁ ―――― 次の約束はいつにしよう?
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その扉はたぶん開けてはならないものなのだろう。
二人を隔てる固くて頑丈なその扉を開けてしまってはいけない。
これ以上近付いて、触れ合って、分け与えてはいけない。
そうでなければ、いつしか元に戻れなくなってしまうに違いないのだから。
それでもこのまま立ち止まっていることなんて出来やしなかった。
あと少し、あと少し。
ほんのちょっと指先を伸ばせば届く距離にあるというのなら、自分はためらわずにそのドアを開けて中へと飛び込んでしまうのだろう。
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ロシアは一人、ソファに座りながら手の内におさまる小さなカードをじっと眺めていた。
薄紫色の柔らかな色彩の上等な紙に、万年筆の美しい筆記体が軽やかに踊っている。メッセージはたった一言、恥ずかしいまでにストレートな言葉であった。
イギリスからバレンタインのチョコと共に貰ったそれは、彼には珍しいほど飾り気のないもので、だからこそ余計ダイレクトにロシアの心に響く。
自分の気持ちを伝えるのが大の苦手なイギリスが、この『I love you』の文字ひとつを書くことにどれほど時間をかけたのだろうと、想像するだけで知らず笑みが浮んでくるほどだった。
あの日、わざわざこの極寒の地まで赴いてくれた彼に、このカードと同じ言葉を返してみれば、そのまま真っ赤になって泣きそうな顔で喜んでくれた。
それから二人で温かい紅茶を飲み、キスをして、抱き締めあって眠った。朝が来なければいいと思ったのはあの日が初めての事だったかもしれない。それほど嬉しかったのだ。
不器用ゆえにはっきりと自分の気持ちを表に出さないイギリスが、ちゃんと言葉にしてくれた。それだけで今回のバレンタインデーはかなり貴重な体験だったと言えよう。
―――― 作戦は見事、成功したのだ。
「兄さん、嬉しそう」
ベラルーシが紅茶を手に近付いてくる。英国の有名百貨店で販売されているそれは、以前イギリスが手土産と称して買って来てくれた物だ。
味も香りも彼のお墨付きで、ロシアもとても気に入っている。
「ベラルーシには悪いことしちゃったかな」
「別に。兄さんが幸せなら構わない」
「イギリス君を騙すことになっちゃったけど、まぁしょうがないよね」
「それくらいなんでもないはず。兄さんの愛を受けられるのだから」
あの時のメール。
イギリスが寄越したメールに咄嗟に嘘の返信をした。日頃からなんだかんだと考えを廻らせている彼が、特別なイベントを急にキャンセルしたらどういう行動に出るのだろうかと、興味本位で仕掛けた嘘だ。
怒るだろうか、それとも悲しむだろうか。昔のように罵声を浴びせてさんざん詰るだろうか。付き合いきれないと離れていくのだろうか。
そんなことを思いながら、結局なんの進展もないまま当日を迎えた。
それなのにあの日、彼は吹雪の中わざわざモスクワまで来た挙句、呼び鈴を鳴らすこともなく帰ろうとしたのだ。小さな紙袋ひとつを置き去りにして、なんともご苦労なことだと思う。
ロシアにはそんなイギリスの気持ちなど欠片も分からないし、彼がどういう考えで動いているのかもさっぱり分からなかった。きっと尋ねても理解出来ないししたいとも思わない。
彼は自分に会いたかったと言った。会えて嬉しかったとも言った。ならば何故もっと早く電話でもしてちゃんとこちらの予定を確認しなかったのだろう。たかがメールのそっけない一言で簡単に納得してしまったくせに、凍てついた風の中どうしてこんな所にまで足を運んで来たりしたのだろうか。
イギリスは会うたびに不安そうな目をしていて、そのくせ現状に満足しきった表情でただ笑ってばかりいる。正直どうして欲しいのか、どうすればいいのかロシアにだって分からない。
けれどこちらとしては願うことは唯一つきりなのだから、それさえ得られれば他はどうでも良かった。ロシアにとっては結果だけが重要で、その過程などいつだって無意味に等しいと感じている。
「この先もイギリス君が、ずっとずっと僕だけを好きでいてくれたらいいのになぁ」
「そんなに欲しいなら侵略すればいいのに」
「それじゃ駄目だよベラルーシ。僕は彼に自分の意思でここに来てもらいたいんだから」
この、極寒の大地、欧州の北の果てに自らの足で会いに来て欲しいのだ。
誰も望まない、誰もぬくもりをくれないこの国に、わざわざ雪まみれになりながらチョコレートひとつ届けに来たイギリスを、どんなに待ち望んでいたかなんてきっと誰にも分からない。
会いたいのを我慢して予定をキャンセルして、試すようなことをして、そうやって人の気持ちを確かめていかないとたぶん自分は不安なのだと思う。そしてそんな馬鹿みたいな行動を取らせてしまうほどイギリスは、ロシアにとって未だかつてないくらい不思議な存在だった。
「兄さんがいいならそれでいい」
「うん、僕はきっと今、とても幸せなんだと思うよ」
幸福の経験も定義も理解もないからそれが本当に幸せなのかどうかは分からないけれど、たぶん当たってるんじゃないだろうか。
支配とは違った形で傍にいるということ。その隣の温かさをはじめて教えてくれた人。触れ合う指先から伝わる熱に、この上もない衝動を沸き起こさせた存在。
何もかもが珍しくて綺麗で優しい、幻のような現実。
「この夢を終わらせない為なら、僕はなんだってする」
どんなに願っても叶わないと思っていた。だからこそ手に入れたその目に見えない何かを守ろうと子供のように無我夢中になる。手段はきっと選ばない、けれど全てを壊してしまうことのないように、出来るだけ注意は払っていくつもりだ。
これまでのやり方じゃきっと駄目になってしまうと、それくらいロシアだって気付いている。
いつでもどこでも、それこそ敵対している時でさえも、彼が自分を一番に想ってくれていればいいと、そう思う。
その為にはどんなことでもするつもりだ。たとえイギリスを騙そうが、傷つけようが、苦しめようが、そんなことは些細な問題で、欠片も気にしてなんかいられない。
少しずつ少しずつ侵食して、いつか彼の中を全部ロシアで埋め尽くせて行ければ……溢れるくらいにいっぱいにしてしまえれば。
イギリスが己を雁字搦めに縛る鎖に気付いて、苦しいともがき逃れようとしても、奥深くに刻みこんで絶対に消えない疵痕を遺すつもりでいる。泣いても喚いても赦しを乞うても、赤く染まった両手が宙を掻き毟ったとしても、彼が最後に想いを馳せ口にするのはロシアの名前でなければならないのだ。
ふと、テーブルに置いていた携帯電話が着信を告げる。ベラルーシが取って寄越す端末を開いて見れば、液晶画面にはイギリスの名前が浮かんでいた。
そっと気を利かせて妹が部屋を後にするのも気付かずに、ロシアは唇に笑みを浮かべてひどく優しい仕草で無機質な文字を指先でなぞった。
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