紅茶をどうぞ
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開かずの扉 3-1
―――― バレンタイン当日。
イギリスは綺麗にラッピングされたチョコレートと、一輪のバラ、それにメッセージカードを手にロシアの家の前へと辿り着いた。つい先日来たばかりだったが、相変わらず厚い氷に覆われた路面は足元が危なっかしくてたまらない。
それにしても予定の時間よりだいぶ遅くなってしまった。昼ごろの到着予定がすっかり夕方になってしまい、寒さも一段と厳しさを増して正直歩くのも困難だった。
ロンドンは今冬、近年まれに見るほどの大雪に見舞われており、猛吹雪の中飛行機も大幅な遅延を余儀なくされた。むしろ運休しなかったことの方が奇跡だったのかもしれない。
以前ロシアに「暖冬だから雪は少ない」と言ったのが嘘のような悪天候に、かえって今日の約束が反故になったのは良かったのではないかと思うほどだった。
雪が大嫌いなロシアの事だから、ヒースロー空港に降り立ってあの一面に広がる白灰色の世界を見れば相当気分も滅入ったことだろう。恨み事の一つも言われ兼ねなかったので、これはこれで良しとしたい。
こんな日に不機嫌な彼の顔は見たくはなかった。
石畳を慎重に歩いて玄関先に立つ。そしていざプレゼントをポストへ投入しようとして……扉が凍りついて開かないことに気がついた。なんということだろう。
しばらくがさがさと格闘したが、すっかり凍結してしまっているのかびくともしない。諦めてドアノブに青紫色の紙袋をひっかければ、吹きつける雪を浴びてすぐに白くなってしまった。おそらく今夜もまた相当吹雪くだろう。
「寒いけど頑張ってくれよな」
イギリスがそっと袋の中のバラへと声を掛ければ、一瞬だが花びらがきらりと艶やかに輝いた気がした。
なるべく寒さに強い種を選んで来たのだが、氷ついてしまうと触れた瞬間粉々になってしまう。それを恐れてここへ来る前に、妖精たちに頼んでこのバラにちょっとした魔法をかけてもらっていた。
うまくすればこのまま瑞々しい状態でロシアの手に渡るだろう。
「あー……あいつ、まだ忙しいのかなぁ」
結局あれから一度もメールは来なかった。
忙しいと言うのにしつこくこちらから何度も送るのは憚られて、イギリスの方からも連絡は取っていない。基本的に物怖じするような性格ではなかったが、公私の区別はきっちりとつけるタイプだし、配慮が出来ないほど子供でもなかった。
メールをする時間も惜しいくらいに忙しかったり疲れているのだろうと判断して、電話を掛けることもせずにここまで来てしまったのだが……もとより会わない覚悟はして来ている。
バレンタインデーのチョコレートだけ届けたら、すぐに帰るつもりで来たのだ。今さらうじうじと悩んでも仕方がない。
「行くか」
小さく呟いてイギリスは空港へ戻ろうと踵を返しかけて、ふと聞こえて来た笑い声に咄嗟に足を止めた。
この辺りは民家が少なく、人の話し声が届くような距離には何もない。ざっと周辺を見回してみても人影はなく、笑い声がどこからのものかはすぐには判別がつかなかった。
気のせいだろうか、そう思って再び歩き出しかけたところでまた耳にする。明るく弾けたようなその笑い声に、何故か興味を惹かれてぐるりと首を巡らせてみれば、屋敷の奥の部屋に明かりが灯っているのが見えた。
執務室とは違う、ちょっとした談話ルームになっているそこは、最近すっかり通い慣れてしまったイギリスでもあまり立ち入らないような場所だった。確か接客用に使用しているとロシアに聞いたことがある。
誰か客が来ているのだろうか、そう思ってイギリスはなんとはなしに明かりの落ちる部屋の前へと近づいて行った。踏みしめる雪がざくざくと鈍い音を立てる。
大きく取られた窓には遮光カーテンがかかっていたが、ほんの少しだけ合わせの部分があいていた。そこから細く長く光が漏れ、中の様子をうかがうことが出来る。
覗き見なんて趣味の悪い真似をするのは、さすがに傍若無人を気取って来た海賊紳士としても憚られた。けれど追い打ちをかけるように聞こえて来たロシアの声に全身が思いきり反応してしまう。
駄目だと言う気持ちと裏腹に意識はぴんと張りつめ、知らずイギリスは窓枠に指先を掛けてしまっていた。分厚いガラス越しに見える室内、そしてうっすらと聞こえてくる中の会話。
「これ、ベラルーシが作ったの? 凄いね、美味しそう」
小さなリボンのかかった箱を手に乗せ、ロシアが楽しそうにそう言えば、彼の前で無表情に立ちつくしていた髪の長い女性がこくりと大きく頷くのが見えた。確かあれはロシアの妹だっただろうか……あまり会う機会がないので会話したことはなかったが、世界会議の時に何度か見かけたことはある。
そんな彼女の後ろから「俺のも手作りだよ、ベラルーシ」と言っていそいそとプレゼントを取り出しているのはリトアニアだった。すぐにベラルーシに払いのけられていたが、負けじと笑顔全開で何か話し掛けている。
その後ろにもまた、見慣れた姿。
「リト、これ食べてもいーん?」
「ポーランドの分はこっちにちゃんとあるよ!」
「ふーん」
いつの間にやらポーランドが、リトアニアがベラルーシに渡そうとしてすげなく振り落とされた箱を、勝手に開けて中身を取り出してしまっていた。慌てて別の箱を取り出すリトアニアだったが、時すでに遅しと言った感じである。
そんな彼らには目もくれず、ベラルーシはべったりとロシアの腕に自分の腕を絡めて張り付いて離れず、その反対側から、今度は巨乳の女性……確かウクライナだったか……がカラフルなラッピングのボックスを差し出してくるのが見えた。
「ロシアちゃん、これ私からのプレゼント!」
「あ、ありがとう姉さん」
「いいのよ。可愛いロシアちゃんのためだもの! もちろんお礼はキエフルーシ権でいいわ~」
「相変わらず黒いね姉さん」
多少引き攣りながらもロシアは笑顔のままその包みを受け取った。それをそっと大事そうに抱える仕草から、彼がものすごく喜んでいる様子が窺えて、イギリスは冷たくかじかんだ指先からどんどん感覚がなくなっていくのを感じた。
目の前に広がる光景に、ぼんやりと胸中に落ちたのは一体なんだったのだろう。
そうだ、最初から分かっていたはずだ。ロシアには大切な家族があって、何もイギリス一人が特別なわけではない。
そう言えばクリスマスも一緒には過ごせなかったことを思い出す。国教会と正教会では時期が違うため、なんだかんだでお互い予定が合わなかったのだ。
だからこそバレンタインデーは、と必要以上に張り切っていたわけではなかったが、折角のイベントだ、お祭り好きな性格も手伝って一人ではしゃいでしまっていたのは事実だろう。
げんにこうしてわざわざチョコレートひとつ届けるのため、極寒のモスクワにやって来てしまうくらい、浮かれていたのは間違いない。
別にロシアが誰と過ごそうと、それ自体は本当にどうでも良かった。人にはそれぞれ付き合いというものがあり、ましてや『国』ともなればそのしがらみや影響は計り知れないくらい大きなものとなる。
イギリスも連合王国の一翼として、たとえどんなに仲が悪くともいつだって兄達と足並みを揃えることを常としているし、ロシアも連邦国としてないがしろに出来ない関係というものが多々あって当たり前の話だ。
自分一人、誰よりも優先して欲しいなどという子供じみた我儘を言うつもりは毛頭ない。仕事以外の、プライベートな部分ではロシアが決めたことに対してあれこれ口出しをするようなことは、これまで一度たりともなかった。
束縛は反発につながり、反発は別離につながることを身をもってイギリスは体験して来たのだ。同じ過ちは繰り返さない。
でも、一言でよかった。
電話が無理ならメールでも構わない、たった一言、残念だと……忙しくて会えなくて残念だった、と。それだけでいいから欲しかったのだ。
大勢の中の一人でもいいから、少しでも会いたいと思っていて欲しかった。会えなくなったことにがっかりしてもらいたかった。
自分が感じた喪失感の100分の1でもいいから、哀しんで欲しかったのだ。
―――― 次の『約束』が欲しかった。
「……ま、しょうがないか」
呟いてからイギリスは、ふぅと身体の一番深いところから諦めたように重く息を吐いて、唇を閉ざした。
大丈夫、泣いたりはしない。こんなことくらいでいちいち傷ついていたらこの先やっていけなくなる。それにここで泣いたりなんかしたら涙はすぐに凍ってしまって、顔面凍傷などという実に笑えない事態に陥るだろう。そんなの、冗談じゃなかった。
女々しい未練を振り切るように、今度こそきっぱりとロシア邸に背を向ける。
押し付けがましい感情は持たないようにしようと決めた。駆け引きや打算はロシアとの間には必要ないだろう。このまま現状維持がいいに決まっている。余計なことをして全てが壊れてしまった時の事を考える方が怖い。
Love&Peace。
あぁそうだ。それだけあれば大丈夫。
他に何を望むというのだろう?
モスクワ市中心部から南方に35kmの位置にある、空の玄関ドモジェドヴォ国際空港に到着したのは、すでに20時を回るかというところだった。
電光掲示板で帰国に使う予定のブリティッシュ・エアウェイズの案内を眺めながら、イギリスは遅い夕食を済ませようと空港内のレストランへと足を運んだ。
くたびれた様子のビジネスマンにまじって適当に頼んだサンドイッチとコーヒーに口を付けていると、次第に脱力感共々やりきれない思いがじわじわと募るのを感じる。
それでも文句は言いたくなかった。泣きごとの一つでも言ってしまえば自分が余計惨めになるだけだし、そもそもロシアにはなんの落ち度もないのだから、それでは単なる逆恨みになってしまう。
自分が勝手に浮かれて、勝手に楽しみにして、勝手に来たのだから相手を責めるのはお門違いである。誰のせいでもないのだ。
ロシアが姉妹や旧連邦諸国に会うことを、イギリスがとやかく言えるはずもない。そんな権利もなければ立場でもなかった。
週末に時間が取れなくなったことを知らされた時から、すべてを諦めていたはずだ。仕事だろうがプライベートだろうがそんなことは関係がない。駄目なものは駄目、と諦め納得した上でここに来たのだから責めるべき相手などどこにもいないだろう。
ロシアは確かにイギリスのことを好きだと言った。
抱きあって、キスをした。
だがその程度のことがなんになるだろう? それぐらいで相手の好意を独り占め出来るとは思っていない。好きだと言う彼の気持ちは疑ってはいないけれど、あのロシアにそれ以上のものを求めてはいけない。
恋愛をすること自体が無駄な行為であることに、いい加減気がついていたはずなのに。
「人はどんどん貪欲になるな……」
最初はもっと単純だった。もっと簡単で分かりやすく、とてもシンプルなことだった。
お茶をして、たわいない会話を繰り返して、時々触れ合う。それだけで満足だったはずなのに、どうして、どうして。
もっともっとと望んでしまうのだろう。
「…………」
一人でいるとどうもネガティブ思考を止められなくなる。
早く帰って好きな紅茶を淹れてのんびりソファでくつろげば、今感じているこの倦怠感もきっとなくなるに違いない。妖精たちに歌でも歌ってもらえば気分も晴れるだろうと、そう思ってイギリスが腕時計に目を落として時間を確認してみれば、搭乗時刻まであと30分といったところだ。そろそろ出発ゲートに行かなければならない。
立ち上がってトレイを下げ、店員の無機質な声を背に店を後にすると、手続きは済んでいるのでそのままラウンジを抜けてロビーに向った。
『イギリス君』
「……え?」
ふと誰かに呼ばれた気がして立ち止まれば、突然空港の窓ガラスが一斉にガタガタと大きな音を立てはじめた。
全員が動きを止めて顔を廻らせる中、飛行機の風圧にも耐えられるはずの頑丈な窓は、小刻みにぶるぶると震えて続けている。
―――― 地震か!?
だが地面は揺れ動いてはいない。ただ風の猛烈な唸り声だけが聞こえ、不気味に思って無言で窓を見遣っていると、その恐ろしいまでの強い風は雪を舞い上げ、外一面覆い尽くしていく。それはすでに吹雪などという生易しいものではなかった。
「な、なんだ……?」
雪、ではなく氷の粒が窓ガラスを叩き、あっという間に結露して真っ白に密集していく。どんな寒波でもこれほど強烈なものはないだろう。今まで見たことがないほどの勢いに、さすがのイギリスも思わず息を呑んでいれば。
「イギリス君!」
はっきりとした呼び声と共にこちらに走り寄って来る人影が見えた。
状況が掴めずえ?え?と困惑していれば、ロングコートの裾を翻すロシアの姿が目の前にあって、イギリスは驚きのあまりその場に硬直するしかなかった。
イギリスは綺麗にラッピングされたチョコレートと、一輪のバラ、それにメッセージカードを手にロシアの家の前へと辿り着いた。つい先日来たばかりだったが、相変わらず厚い氷に覆われた路面は足元が危なっかしくてたまらない。
それにしても予定の時間よりだいぶ遅くなってしまった。昼ごろの到着予定がすっかり夕方になってしまい、寒さも一段と厳しさを増して正直歩くのも困難だった。
ロンドンは今冬、近年まれに見るほどの大雪に見舞われており、猛吹雪の中飛行機も大幅な遅延を余儀なくされた。むしろ運休しなかったことの方が奇跡だったのかもしれない。
以前ロシアに「暖冬だから雪は少ない」と言ったのが嘘のような悪天候に、かえって今日の約束が反故になったのは良かったのではないかと思うほどだった。
雪が大嫌いなロシアの事だから、ヒースロー空港に降り立ってあの一面に広がる白灰色の世界を見れば相当気分も滅入ったことだろう。恨み事の一つも言われ兼ねなかったので、これはこれで良しとしたい。
こんな日に不機嫌な彼の顔は見たくはなかった。
石畳を慎重に歩いて玄関先に立つ。そしていざプレゼントをポストへ投入しようとして……扉が凍りついて開かないことに気がついた。なんということだろう。
しばらくがさがさと格闘したが、すっかり凍結してしまっているのかびくともしない。諦めてドアノブに青紫色の紙袋をひっかければ、吹きつける雪を浴びてすぐに白くなってしまった。おそらく今夜もまた相当吹雪くだろう。
「寒いけど頑張ってくれよな」
イギリスがそっと袋の中のバラへと声を掛ければ、一瞬だが花びらがきらりと艶やかに輝いた気がした。
なるべく寒さに強い種を選んで来たのだが、氷ついてしまうと触れた瞬間粉々になってしまう。それを恐れてここへ来る前に、妖精たちに頼んでこのバラにちょっとした魔法をかけてもらっていた。
うまくすればこのまま瑞々しい状態でロシアの手に渡るだろう。
「あー……あいつ、まだ忙しいのかなぁ」
結局あれから一度もメールは来なかった。
忙しいと言うのにしつこくこちらから何度も送るのは憚られて、イギリスの方からも連絡は取っていない。基本的に物怖じするような性格ではなかったが、公私の区別はきっちりとつけるタイプだし、配慮が出来ないほど子供でもなかった。
メールをする時間も惜しいくらいに忙しかったり疲れているのだろうと判断して、電話を掛けることもせずにここまで来てしまったのだが……もとより会わない覚悟はして来ている。
バレンタインデーのチョコレートだけ届けたら、すぐに帰るつもりで来たのだ。今さらうじうじと悩んでも仕方がない。
「行くか」
小さく呟いてイギリスは空港へ戻ろうと踵を返しかけて、ふと聞こえて来た笑い声に咄嗟に足を止めた。
この辺りは民家が少なく、人の話し声が届くような距離には何もない。ざっと周辺を見回してみても人影はなく、笑い声がどこからのものかはすぐには判別がつかなかった。
気のせいだろうか、そう思って再び歩き出しかけたところでまた耳にする。明るく弾けたようなその笑い声に、何故か興味を惹かれてぐるりと首を巡らせてみれば、屋敷の奥の部屋に明かりが灯っているのが見えた。
執務室とは違う、ちょっとした談話ルームになっているそこは、最近すっかり通い慣れてしまったイギリスでもあまり立ち入らないような場所だった。確か接客用に使用しているとロシアに聞いたことがある。
誰か客が来ているのだろうか、そう思ってイギリスはなんとはなしに明かりの落ちる部屋の前へと近づいて行った。踏みしめる雪がざくざくと鈍い音を立てる。
大きく取られた窓には遮光カーテンがかかっていたが、ほんの少しだけ合わせの部分があいていた。そこから細く長く光が漏れ、中の様子をうかがうことが出来る。
覗き見なんて趣味の悪い真似をするのは、さすがに傍若無人を気取って来た海賊紳士としても憚られた。けれど追い打ちをかけるように聞こえて来たロシアの声に全身が思いきり反応してしまう。
駄目だと言う気持ちと裏腹に意識はぴんと張りつめ、知らずイギリスは窓枠に指先を掛けてしまっていた。分厚いガラス越しに見える室内、そしてうっすらと聞こえてくる中の会話。
「これ、ベラルーシが作ったの? 凄いね、美味しそう」
小さなリボンのかかった箱を手に乗せ、ロシアが楽しそうにそう言えば、彼の前で無表情に立ちつくしていた髪の長い女性がこくりと大きく頷くのが見えた。確かあれはロシアの妹だっただろうか……あまり会う機会がないので会話したことはなかったが、世界会議の時に何度か見かけたことはある。
そんな彼女の後ろから「俺のも手作りだよ、ベラルーシ」と言っていそいそとプレゼントを取り出しているのはリトアニアだった。すぐにベラルーシに払いのけられていたが、負けじと笑顔全開で何か話し掛けている。
その後ろにもまた、見慣れた姿。
「リト、これ食べてもいーん?」
「ポーランドの分はこっちにちゃんとあるよ!」
「ふーん」
いつの間にやらポーランドが、リトアニアがベラルーシに渡そうとしてすげなく振り落とされた箱を、勝手に開けて中身を取り出してしまっていた。慌てて別の箱を取り出すリトアニアだったが、時すでに遅しと言った感じである。
そんな彼らには目もくれず、ベラルーシはべったりとロシアの腕に自分の腕を絡めて張り付いて離れず、その反対側から、今度は巨乳の女性……確かウクライナだったか……がカラフルなラッピングのボックスを差し出してくるのが見えた。
「ロシアちゃん、これ私からのプレゼント!」
「あ、ありがとう姉さん」
「いいのよ。可愛いロシアちゃんのためだもの! もちろんお礼はキエフルーシ権でいいわ~」
「相変わらず黒いね姉さん」
多少引き攣りながらもロシアは笑顔のままその包みを受け取った。それをそっと大事そうに抱える仕草から、彼がものすごく喜んでいる様子が窺えて、イギリスは冷たくかじかんだ指先からどんどん感覚がなくなっていくのを感じた。
目の前に広がる光景に、ぼんやりと胸中に落ちたのは一体なんだったのだろう。
そうだ、最初から分かっていたはずだ。ロシアには大切な家族があって、何もイギリス一人が特別なわけではない。
そう言えばクリスマスも一緒には過ごせなかったことを思い出す。国教会と正教会では時期が違うため、なんだかんだでお互い予定が合わなかったのだ。
だからこそバレンタインデーは、と必要以上に張り切っていたわけではなかったが、折角のイベントだ、お祭り好きな性格も手伝って一人ではしゃいでしまっていたのは事実だろう。
げんにこうしてわざわざチョコレートひとつ届けるのため、極寒のモスクワにやって来てしまうくらい、浮かれていたのは間違いない。
別にロシアが誰と過ごそうと、それ自体は本当にどうでも良かった。人にはそれぞれ付き合いというものがあり、ましてや『国』ともなればそのしがらみや影響は計り知れないくらい大きなものとなる。
イギリスも連合王国の一翼として、たとえどんなに仲が悪くともいつだって兄達と足並みを揃えることを常としているし、ロシアも連邦国としてないがしろに出来ない関係というものが多々あって当たり前の話だ。
自分一人、誰よりも優先して欲しいなどという子供じみた我儘を言うつもりは毛頭ない。仕事以外の、プライベートな部分ではロシアが決めたことに対してあれこれ口出しをするようなことは、これまで一度たりともなかった。
束縛は反発につながり、反発は別離につながることを身をもってイギリスは体験して来たのだ。同じ過ちは繰り返さない。
でも、一言でよかった。
電話が無理ならメールでも構わない、たった一言、残念だと……忙しくて会えなくて残念だった、と。それだけでいいから欲しかったのだ。
大勢の中の一人でもいいから、少しでも会いたいと思っていて欲しかった。会えなくなったことにがっかりしてもらいたかった。
自分が感じた喪失感の100分の1でもいいから、哀しんで欲しかったのだ。
―――― 次の『約束』が欲しかった。
「……ま、しょうがないか」
呟いてからイギリスは、ふぅと身体の一番深いところから諦めたように重く息を吐いて、唇を閉ざした。
大丈夫、泣いたりはしない。こんなことくらいでいちいち傷ついていたらこの先やっていけなくなる。それにここで泣いたりなんかしたら涙はすぐに凍ってしまって、顔面凍傷などという実に笑えない事態に陥るだろう。そんなの、冗談じゃなかった。
女々しい未練を振り切るように、今度こそきっぱりとロシア邸に背を向ける。
押し付けがましい感情は持たないようにしようと決めた。駆け引きや打算はロシアとの間には必要ないだろう。このまま現状維持がいいに決まっている。余計なことをして全てが壊れてしまった時の事を考える方が怖い。
Love&Peace。
あぁそうだ。それだけあれば大丈夫。
他に何を望むというのだろう?
* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *
モスクワ市中心部から南方に35kmの位置にある、空の玄関ドモジェドヴォ国際空港に到着したのは、すでに20時を回るかというところだった。
電光掲示板で帰国に使う予定のブリティッシュ・エアウェイズの案内を眺めながら、イギリスは遅い夕食を済ませようと空港内のレストランへと足を運んだ。
くたびれた様子のビジネスマンにまじって適当に頼んだサンドイッチとコーヒーに口を付けていると、次第に脱力感共々やりきれない思いがじわじわと募るのを感じる。
それでも文句は言いたくなかった。泣きごとの一つでも言ってしまえば自分が余計惨めになるだけだし、そもそもロシアにはなんの落ち度もないのだから、それでは単なる逆恨みになってしまう。
自分が勝手に浮かれて、勝手に楽しみにして、勝手に来たのだから相手を責めるのはお門違いである。誰のせいでもないのだ。
ロシアが姉妹や旧連邦諸国に会うことを、イギリスがとやかく言えるはずもない。そんな権利もなければ立場でもなかった。
週末に時間が取れなくなったことを知らされた時から、すべてを諦めていたはずだ。仕事だろうがプライベートだろうがそんなことは関係がない。駄目なものは駄目、と諦め納得した上でここに来たのだから責めるべき相手などどこにもいないだろう。
ロシアは確かにイギリスのことを好きだと言った。
抱きあって、キスをした。
だがその程度のことがなんになるだろう? それぐらいで相手の好意を独り占め出来るとは思っていない。好きだと言う彼の気持ちは疑ってはいないけれど、あのロシアにそれ以上のものを求めてはいけない。
恋愛をすること自体が無駄な行為であることに、いい加減気がついていたはずなのに。
「人はどんどん貪欲になるな……」
最初はもっと単純だった。もっと簡単で分かりやすく、とてもシンプルなことだった。
お茶をして、たわいない会話を繰り返して、時々触れ合う。それだけで満足だったはずなのに、どうして、どうして。
もっともっとと望んでしまうのだろう。
「…………」
一人でいるとどうもネガティブ思考を止められなくなる。
早く帰って好きな紅茶を淹れてのんびりソファでくつろげば、今感じているこの倦怠感もきっとなくなるに違いない。妖精たちに歌でも歌ってもらえば気分も晴れるだろうと、そう思ってイギリスが腕時計に目を落として時間を確認してみれば、搭乗時刻まであと30分といったところだ。そろそろ出発ゲートに行かなければならない。
立ち上がってトレイを下げ、店員の無機質な声を背に店を後にすると、手続きは済んでいるのでそのままラウンジを抜けてロビーに向った。
『イギリス君』
「……え?」
ふと誰かに呼ばれた気がして立ち止まれば、突然空港の窓ガラスが一斉にガタガタと大きな音を立てはじめた。
全員が動きを止めて顔を廻らせる中、飛行機の風圧にも耐えられるはずの頑丈な窓は、小刻みにぶるぶると震えて続けている。
―――― 地震か!?
だが地面は揺れ動いてはいない。ただ風の猛烈な唸り声だけが聞こえ、不気味に思って無言で窓を見遣っていると、その恐ろしいまでの強い風は雪を舞い上げ、外一面覆い尽くしていく。それはすでに吹雪などという生易しいものではなかった。
「な、なんだ……?」
雪、ではなく氷の粒が窓ガラスを叩き、あっという間に結露して真っ白に密集していく。どんな寒波でもこれほど強烈なものはないだろう。今まで見たことがないほどの勢いに、さすがのイギリスも思わず息を呑んでいれば。
「イギリス君!」
はっきりとした呼び声と共にこちらに走り寄って来る人影が見えた。
状況が掴めずえ?え?と困惑していれば、ロングコートの裾を翻すロシアの姿が目の前にあって、イギリスは驚きのあまりその場に硬直するしかなかった。
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