紅茶をどうぞ
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[祭] 泣く (溢れた涙、伝う頬) 2
雪があとからあとから降り続いていた。
明日の朝までには恐らくかなりの積雪が予想される。郊外にあるイギリスの家もすぐに白く埋まってしまって、春を待ち侘びることになるのだろう。
中へ入れてやるから立てと言えば、ロシアは案外素直に言うことを聞いた。最悪肩でも貸さなければならないのだろうかとうんざりしていたが、足取りはしっかりしている上に全身に積もった雪を自ら払い落としはじめる。それから濡れた手袋も脱いでコートにしまった。
どうやら最低限のマナーは心得ているようだ。
かじかんだ指で鍵を開け、ドアノブを握るとそのまま引く。ロシアが今までもたれていた玄関先の石畳には雪がないので、抵抗なくすんなりと開いた。暗い廊下に雪明かりが薄く斜めに差し込む。
「ついてこい」
顎をしゃくって促すと無言で頷いたロシアが足音もなくイギリスに続いた。寒さが苦手な花の妖精たちは、この季節は滅多に表には出てこない。必然、一人きりの住宅には人の気配はなく、しんと静まり返った廊下を進んでいけば床にわだかまった冷気がゆらりと揺れるのを感じた。
絨毯を敷き詰めたリビングに入る前にコートを脱ぐ。ロシアも逡巡しながら前ボタンに手を掛けようとして動きを止めた。ためらう素振りに気付いて容赦なくイギリスは命じる。
「早く脱げ」
「……でも」
「まとめて乾かすから貸せって言ってるんだ」
手を差し出せばロシアの瞳がわずかに細められ、それから小さく溜息にも似た吐息を吐いて静かにボタンを外していく。
ひとつ、ふたつ、みっつ。そのままどこかたどたどしいような動きで彼は、するりと肩から着慣れたコートを落として腕を抜いた。
黒っぽいシャツだけの姿になったロシアは、それでもマフラーだけは外すことなくぼんやりとした表情で佇んでいる。
「寄越せ」
乱暴に掴んで奪い取ると、ずしりとした重みが腕に伝わり驚いて目を見開く。すぐにそれが普段からロシアが身に付けているであろう銃であることに気づき、イギリスは唇を引き結んだ。
あのロシアが。自ら武器を手放し人に預けるような真似をするとは信じられない。けれど現実に彼はイギリスに武器ごとコートを預けたのだ。
一瞬脳裏を掠めたのは小型爆弾の類が仕込まれているかもしれない、ということだったが、自身が長時間身につける物にそんなものを取り付けているはずもない。可能性はすぐに消え去り、イギリスは困惑と不気味な何かを感じてちらりとロシアの顔を窺った。
あまり人前で表情を消さない彼にしては珍しく、笑み一つ浮いていないその白い面は奇妙なほど生気がない。陶製の人形のような容貌の中、プラスチックのごとく温度のないふたつの目が余計おもちゃのように見え、背筋がぞっとした。
軽く首を振るとイギリスはコートを二人分まとめて小脇に抱え、リビングへと入る。すぐにクローゼットからハンガーを取り出して吊るし、壁に掛けた。
その足で暖炉に火を入れて薪をくべ、それだけでは足りないので最近急速に一般家庭に普及し始めたエアコンディショナーのスイッチも入れる。とにかく今は冷え切った体を温めるのが先決だ。
「ロシア、こっちに来い」
廊下でぼうっとしたまま立っている彼を呼べば、一瞬だけ反応が遅れるように間を置いて、のそりとロシアが中へと入って来る。暖炉の前にクッションを置いて座るよう促してから、イギリスは足早にタオルを取りにバスルームへと移動した。
まったく今日はなんて厄日だ。長丁場の仕事を終えてようやく帰って来た矢先に、この世で最も会いたくない男に会ってしまい、なおかつ家に招き入れる羽目になろうとは。
本当だったら今夜は上司の秘書から借りた娯楽映画のビデオを見ながら、紅茶片手にのんびりくつろぐ予定だったと言うのに!
思わず隠しきれない苛立ちをぶつけるようにタオルをひっつかんでから、再びリビングへと戻る。目を離した隙に何をされるか分かったものではなかったので、部屋に入る時はいきなり撃たれても対応出来るようにドアの影に身を潜め、神経を張り詰めて中の様子を窺った。まったくどうして自宅でこんな007の真似事などしなければならないのだろうか。
何事もないことを確認してから一歩を踏み出せば、けれど銃口の代わりに目に飛びこんで来た光景に唖然となる。
「……ロ、シア」
目を見開いて茫然となり、はっと気を取り直してイギリスは慌てて暖炉のそばまで駆け寄った。
新しい薪に燃え移った炎と、そのオレンジ色の光に照らされる白い顔。ロシアは暖炉の内側に身を乗り出しながら、まるで火に触れようとでも言うかのようにまっすぐ手を近づけていた。
「ちょ、お前何やってんだよ!」
今にも焼かれてしまいそうなほどの至近距離。驚いたまま本能的にイギリスはロシアの首元に手を伸ばし、マフラーごとその身体を手前に引いた。
反動で仰け反って二人して尻もちをつくが、そんなことはどうでもいい。すぐに態勢を立て直すと突拍子もない行動を取った目の前の男を、顔を真っ赤にして怒鳴りつける。
「ふざけんなこの野郎!!」
「…………」
「火遊びがしたいならさっさと帰りやがれ!」
胸倉を掴み上げて声を荒げると、茫洋としていたロシアは急に怯えたような表情を浮かべて何度も激しくまばたきを繰り返した。それは戸惑いと言うよりも明らかな恐怖をたたえているように見えて、イギリスは再び驚いて息を呑む。
透明で感情のない瞳の色がじわりと滲んだ気がした。
おかしい。この程度のやりとりなら今まで幾度となくあったはずだ。戦時中はもっと激しい口論も交わして来たというのに、この期に及んで随分ふざけた態度を取るものだ。そうとしか言いようがない。
間違ってもロシアともあろう者が怯むような場面ではないだろう。
「なんだよ、気色わりー顔すんな!」
わずかに指先の力をゆるめながら不機嫌そうに言えば、ロシアはしばらくこちらの顔を見つめてから、ゆっくりと首をかしげる。色をなくした唇が小さく開いて、並びの良い歯が少しだけ見えた。
「えっと、紅茶、まだかな? イギリス君」
「はぁ?」
「うん、だから、紅茶。あったかいの、欲しいな」
いつも通りの人を喰ったような軽い態度。だがどこか奇妙に違和感のあるその言動に戸惑う。何かがおかしい、何かが不自然だ。
怪訝そうに眉を顰めてから、けれどこれ以上踏み込んではいけないような気がしてイギリスはゆっくりと身体を起こした。
一瞥すると、釈然としない重い空気を思いきり肺から吐き出して、膝をついた拍子にスラックスについた皺を伸ばして語調を荒げる。
「黙って座ってろ。いいな、動くんじゃねーぞ!」
「うん」
「別にお前が燃えようが何しようが関係ないが、俺んちで火事はご免だ。分かったな!!」
「うん」
相槌だけは立派に、何度も首を上下に振りながら貼りついたような笑みを浮かべるその顔に、知らず知らず募らせていた違和感が更にぐんと増す。お互いの距離感がうまくつかめないような気がしてとにかく居心地が悪かった。
このまま会話を続けていたら、あまり嬉しくはない展開になりそうでイギリスは覗き込んで来る青紫の目から顔を逸らす。そして紅茶の準備をするためキッチンへと足早に向かった。
白い湯気を立ち上らせたティーカップを二つ、トレイに乗せてイギリスはリビングへと戻る。
ロシアは暖炉の前で大きな体躯を丸めるようにして膝を抱え、大人しく座っていた。ちろちろと揺れる暖炉の火がその青白い肌を明るく染め上げているのに、一瞬そこにいるのが誰なのか分からないような気がしてイギリスは思いきり首を振った。
異質な雰囲気に流されるなど自分らしくない。どうかしている。
「ロシア、紅茶淹れてやったぞ」
声を掛けながらローテーブルに置いて移動するよう促すと、緩慢な動きでロシアは顔を向け、それからそろそろと体制を変えて静かに立ち上がった。
普段はイギリスと小さな友人たちしかいないこの部屋に、大柄な男一人がいるだけで妙な圧迫感がある。
「ありがとう、イギリス君」
ソファに座り直してロシアは目の前に置かれた琥珀色の液体をしばし見つめ、どこかまぶしそうに両目を眇めた。それから遠慮がちに手を伸ばして、まだ熱いそれを恐る恐る持ち上げる。その仕草は常の彼らしくない臆病な様子が見えて、イギリスは戸惑った。
これまでイギリスが目にして来たのは、遠慮を知らない傍若無人なロシアだ。「ありがとう」と彼が自分相手に礼を言う日が来るなど、これまで想像だにしなかった。
「ってお前その指!」
ふと、ロシアのカップを持つ指先が赤く腫れているのに気付いてイギリスは思わず声を上げた。
困惑した表情でロシアがこちらを窺うのを無視して、伸ばした手で紅茶を取り上げる。咄嗟の事に反論の言葉もない彼の、宙に浮いた指をそっと手のひらで受け止めるとイギリスは忌々しそうに舌打ちをした。
長い指先から手の内側にかけて一面焼けただれてしまっている。
「さっきの火傷か? なんで言わねーんだよ!」
「だって」
「あーもう水ぶくれになってんじゃねーか……こりゃ冷やしても無駄だな。油垂らさないと」
「ね、イギリス君」
「なんだよ、うっせーな!」
「紅茶、飲んでいい? ね、ね、いいかな?」
「手当が先だろ!」
呆れたように怒鳴るイギリスの顔を、下から見上げるロシアの顔には不安の色がありありと浮かんでいる。意外すぎる表情にたじろぐようにイギリスは仰け反り、息を呑む。
「せっかく淹れてくれたのに冷めちゃうよ」
「いや、でも」
場違いな遣り取りに逡巡していれば、ロシアは再びティーカップを手にするとそのまま口をつける。熱いそれをこくりと一口飲んでから、じっとさざ波の立つ水面に視線を落とした状態で動きが止まった。
「なんだよ」
「…………」
料理が下手なのは自他ともに認めているが、昔から紅茶だけは自信があるし、味にうるさいフランスにでさえ「美味しい」と言わせたことがあるのだ。まずいわけがない……と思いながらも、イギリスは眉を寄せて無言のロシアを見据える。
間近に寄っていたせいか伏せた睫がゆっくりと上下する様が見える。なんとなく色素の薄いそれを眺めていれば、ふっと彼の眼が上目遣いでこちらを捉えた。
唇が困惑気味に小さな笑みを浮かべる。
「ごめん、味、わかんないや」
「え?」
「香りも分からないし、駄目みたい」
言いながらロシアはカップを置いて自分の手を見つめた。暖炉の火によって傷つけられた指先は変色していると言うのに、なんでもないことのようにもう片方の手で感触を確かめている。
引きつれた皮膚からはじわりと血が滲み始めているというのに、何故。
「お前、それ」
「痛くないんだよね、ぜんぜん」
「…………」
「折角淹れてもらった紅茶も味がしないし、あーあ……つまんないの」
ロシアはふ、と小さく息をつくとソファに深く腰掛けて瞼を落とした。かさついた薄い唇が細い呼吸をゆるゆると吐き出していく。
若干疲労を帯びたその顔を見つめて、イギリスはこの家に彼が来た時から常に感じ続けていた違和感の正体にようやく気付いた。何かが違う、どこかがおかしい、ずっとそう感じていた気味の悪さは間違いない。
―――― 味覚と痛覚がないというのならば、もしかして。
すっと手のひらを動かないロシアの瞼の上に置く。ぼんやりと宙を彷徨うガラス玉のような、プラスチックのような、青紫の透明な目。閉ざされたその無機質な瞳には最初から光のようなものはなく、ここへ来て以来一度もイギリスの眼差しと合うことはなかったのだ。
「お前、見えていないんだな」
普段は鬱陶しいほど相手の一挙手一投足に気を使うこの男の、珍しいまでの無関心さが不気味だったのだ。
警戒心の強いロシアは、いつもならイギリスの動向に細心の注意を払う。そんな彼が目も合わせず、視線も向けずに他人と同じ空間にいるということ自体、普通ではない。けれど目が見えていないのならそれもまた仕方がないのだろう。
「本当は南の国に行きたかったんだ」
ロシアはイギリスの手を払いのけることもなく、独り言を呟くように言った。
「でも、途中でなんだかよく見えなくなってくるし、身体も重いし、こうなったら大嫌いなイギリス君に嫌がらせでもしなくちゃって思って、来たんだけど」
「相変わらず最悪な奴だな」
忌々しげに吐き捨てれば、ロシアの手がふいにイギリスの甲に触れ、続いてぎゅっと強い力で握りこんできた。驚いて咄嗟に手を引こうとしてもびくともしない。
ハッと息を呑んで離れようとしても無駄で、腕を思いきり引っ張られればイギリスの身体はあっという間にバランスを失ってソファに簡単に抑えつけられてしまう。肩を掴まれ太ももの上に体重を掛けられれば身動きは取れなかった。
相手が気弱な態度を取るから油断した、と後悔しても遅い。あまりの迂闊さに我ながら呆れ返りつつも、完全に自由を奪われた状態でイギリスは自分の上にのしかかるロシアを睨みつけた。
心なしか嘲るように口元が歪んでいるのが余計に腹が立つ。
「ふざけんな、どけ!」
「ねぇイギリス君。僕の家が壊れたのも僕がこんなにも苦しいのも、みんなみんな君とアメリカ君のせいだと思わない?」
「思わねーよ! 自業自得じゃねーか!!」
「そうなのかな? でもね、君が僕を嫌うように僕も君の事が大嫌いで、目ざわりで、消えてしまえばいいってずっとずっと思っていたんだよ」
「……っ」
ロシアの右手が喉に触れる。ひやりとした感触に目を見開いてなんとか身を捩って逃れようとしたが、身体は少しも動かせなかった。体格差もあるがもともとの腕力も違い過ぎる。このまま強い力で首を絞められればどうなることかと本能的な恐怖が脳裏をよぎった。
殺気は感じない。殺意は伝わっては来なかったが、この男の無邪気な側面に騙されてはならない。笑って銃を撃つことなど日常茶飯事なのだ。
「なんでいつも僕ばかり置いていかれるのかな」
「そんなこと、知るか」
「だって君が悪いんでしょ? イギリス君が僕から全部持って行っちゃうんだよね? この前だってそう、リトアニアをアメリカ君の家に連れて行ったのも君だったし、ポーランドを逃がしたのも君だったね。ねぇ、どうして? どうしてそんな酷いことするの? なんで僕から奪って行くの? ねぇ、どうして? どうしてなの?」
子供が駄々をこねるみたいに、ロシアは同じ言葉を繰り返しながらイギリスの首を絞めようとする。だが先ほど酷い火傷を負った指先はうまく曲がらず、思った以上に力も入らないようだった。
そのうちもどかしいような動きを見せていた彼の指が外されて、暗闇しか映し出さない目に静かに涙が溜まっていくのが見えた。透明であるがゆえに綺麗な、その色。
「……だいっきらい」
そうしてぽつりと落ちた涙はイギリスの頬を伝って流れた。冷たい氷を溶かしたような涙だった。
なんだか居たたまれない気分に陥る。こういうのは苦手だ。まるで幼子が声もなく泣いているような姿はかつての自分を思い出すようで吐き気がする。
どうしてこの男はこんな顔をするのだろう。急に何もかもを放り投げてしまったかのような、置き去りにされ途方に暮れたような顔をするなんて、卑怯だ。
「ロシア」
「みんなで一緒にいたかっただけなのに。ずっとずっとあったかい家族みたいに、一緒にいたかっただけなのに。君のせいで、君のせいで」
ぼたぼたと降り注いでくる涙はまるで雨のごとくイギリスを濡らし、その心の内側にまで入り込んでこようとする。哀しい、寂しい、切ないという感情が間近に感じられて正直息苦しい。
強すぎる想いは痛みとなって伝染し、そのうちしゃくりあげるような声と共に本格的に泣き出してしまったこの大きな子供の泣き声が、脳裏に響いてひどい頭痛となった。
手を差し伸べたくなる。
抱き締めたくなる。
背を撫でて宥めて、大丈夫だと声を掛けてあげたくなる。
けれど今ここにいるのは長い間敵対して来た、イギリスがどこよりも嫌悪する国であり、ロシアにとってもイギリスは憎むべき存在でしかない。
そんな自分がこの男を慰めるなど滑稽すぎる。どんな悪夢だろう、たちの悪い冗談でしかない。
ああでも、それでも。
『一人は嫌だよ、寂しいよ』
言葉が幾度となくリフレインする。
ロシアの声、そして自分の声。
世界の片隅で壊れ行くこの国の欠片が胸に突き刺さり、在りし日の己の姿に重なった。
明日の朝までには恐らくかなりの積雪が予想される。郊外にあるイギリスの家もすぐに白く埋まってしまって、春を待ち侘びることになるのだろう。
中へ入れてやるから立てと言えば、ロシアは案外素直に言うことを聞いた。最悪肩でも貸さなければならないのだろうかとうんざりしていたが、足取りはしっかりしている上に全身に積もった雪を自ら払い落としはじめる。それから濡れた手袋も脱いでコートにしまった。
どうやら最低限のマナーは心得ているようだ。
かじかんだ指で鍵を開け、ドアノブを握るとそのまま引く。ロシアが今までもたれていた玄関先の石畳には雪がないので、抵抗なくすんなりと開いた。暗い廊下に雪明かりが薄く斜めに差し込む。
「ついてこい」
顎をしゃくって促すと無言で頷いたロシアが足音もなくイギリスに続いた。寒さが苦手な花の妖精たちは、この季節は滅多に表には出てこない。必然、一人きりの住宅には人の気配はなく、しんと静まり返った廊下を進んでいけば床にわだかまった冷気がゆらりと揺れるのを感じた。
絨毯を敷き詰めたリビングに入る前にコートを脱ぐ。ロシアも逡巡しながら前ボタンに手を掛けようとして動きを止めた。ためらう素振りに気付いて容赦なくイギリスは命じる。
「早く脱げ」
「……でも」
「まとめて乾かすから貸せって言ってるんだ」
手を差し出せばロシアの瞳がわずかに細められ、それから小さく溜息にも似た吐息を吐いて静かにボタンを外していく。
ひとつ、ふたつ、みっつ。そのままどこかたどたどしいような動きで彼は、するりと肩から着慣れたコートを落として腕を抜いた。
黒っぽいシャツだけの姿になったロシアは、それでもマフラーだけは外すことなくぼんやりとした表情で佇んでいる。
「寄越せ」
乱暴に掴んで奪い取ると、ずしりとした重みが腕に伝わり驚いて目を見開く。すぐにそれが普段からロシアが身に付けているであろう銃であることに気づき、イギリスは唇を引き結んだ。
あのロシアが。自ら武器を手放し人に預けるような真似をするとは信じられない。けれど現実に彼はイギリスに武器ごとコートを預けたのだ。
一瞬脳裏を掠めたのは小型爆弾の類が仕込まれているかもしれない、ということだったが、自身が長時間身につける物にそんなものを取り付けているはずもない。可能性はすぐに消え去り、イギリスは困惑と不気味な何かを感じてちらりとロシアの顔を窺った。
あまり人前で表情を消さない彼にしては珍しく、笑み一つ浮いていないその白い面は奇妙なほど生気がない。陶製の人形のような容貌の中、プラスチックのごとく温度のないふたつの目が余計おもちゃのように見え、背筋がぞっとした。
軽く首を振るとイギリスはコートを二人分まとめて小脇に抱え、リビングへと入る。すぐにクローゼットからハンガーを取り出して吊るし、壁に掛けた。
その足で暖炉に火を入れて薪をくべ、それだけでは足りないので最近急速に一般家庭に普及し始めたエアコンディショナーのスイッチも入れる。とにかく今は冷え切った体を温めるのが先決だ。
「ロシア、こっちに来い」
廊下でぼうっとしたまま立っている彼を呼べば、一瞬だけ反応が遅れるように間を置いて、のそりとロシアが中へと入って来る。暖炉の前にクッションを置いて座るよう促してから、イギリスは足早にタオルを取りにバスルームへと移動した。
まったく今日はなんて厄日だ。長丁場の仕事を終えてようやく帰って来た矢先に、この世で最も会いたくない男に会ってしまい、なおかつ家に招き入れる羽目になろうとは。
本当だったら今夜は上司の秘書から借りた娯楽映画のビデオを見ながら、紅茶片手にのんびりくつろぐ予定だったと言うのに!
思わず隠しきれない苛立ちをぶつけるようにタオルをひっつかんでから、再びリビングへと戻る。目を離した隙に何をされるか分かったものではなかったので、部屋に入る時はいきなり撃たれても対応出来るようにドアの影に身を潜め、神経を張り詰めて中の様子を窺った。まったくどうして自宅でこんな007の真似事などしなければならないのだろうか。
何事もないことを確認してから一歩を踏み出せば、けれど銃口の代わりに目に飛びこんで来た光景に唖然となる。
「……ロ、シア」
目を見開いて茫然となり、はっと気を取り直してイギリスは慌てて暖炉のそばまで駆け寄った。
新しい薪に燃え移った炎と、そのオレンジ色の光に照らされる白い顔。ロシアは暖炉の内側に身を乗り出しながら、まるで火に触れようとでも言うかのようにまっすぐ手を近づけていた。
「ちょ、お前何やってんだよ!」
今にも焼かれてしまいそうなほどの至近距離。驚いたまま本能的にイギリスはロシアの首元に手を伸ばし、マフラーごとその身体を手前に引いた。
反動で仰け反って二人して尻もちをつくが、そんなことはどうでもいい。すぐに態勢を立て直すと突拍子もない行動を取った目の前の男を、顔を真っ赤にして怒鳴りつける。
「ふざけんなこの野郎!!」
「…………」
「火遊びがしたいならさっさと帰りやがれ!」
胸倉を掴み上げて声を荒げると、茫洋としていたロシアは急に怯えたような表情を浮かべて何度も激しくまばたきを繰り返した。それは戸惑いと言うよりも明らかな恐怖をたたえているように見えて、イギリスは再び驚いて息を呑む。
透明で感情のない瞳の色がじわりと滲んだ気がした。
おかしい。この程度のやりとりなら今まで幾度となくあったはずだ。戦時中はもっと激しい口論も交わして来たというのに、この期に及んで随分ふざけた態度を取るものだ。そうとしか言いようがない。
間違ってもロシアともあろう者が怯むような場面ではないだろう。
「なんだよ、気色わりー顔すんな!」
わずかに指先の力をゆるめながら不機嫌そうに言えば、ロシアはしばらくこちらの顔を見つめてから、ゆっくりと首をかしげる。色をなくした唇が小さく開いて、並びの良い歯が少しだけ見えた。
「えっと、紅茶、まだかな? イギリス君」
「はぁ?」
「うん、だから、紅茶。あったかいの、欲しいな」
いつも通りの人を喰ったような軽い態度。だがどこか奇妙に違和感のあるその言動に戸惑う。何かがおかしい、何かが不自然だ。
怪訝そうに眉を顰めてから、けれどこれ以上踏み込んではいけないような気がしてイギリスはゆっくりと身体を起こした。
一瞥すると、釈然としない重い空気を思いきり肺から吐き出して、膝をついた拍子にスラックスについた皺を伸ばして語調を荒げる。
「黙って座ってろ。いいな、動くんじゃねーぞ!」
「うん」
「別にお前が燃えようが何しようが関係ないが、俺んちで火事はご免だ。分かったな!!」
「うん」
相槌だけは立派に、何度も首を上下に振りながら貼りついたような笑みを浮かべるその顔に、知らず知らず募らせていた違和感が更にぐんと増す。お互いの距離感がうまくつかめないような気がしてとにかく居心地が悪かった。
このまま会話を続けていたら、あまり嬉しくはない展開になりそうでイギリスは覗き込んで来る青紫の目から顔を逸らす。そして紅茶の準備をするためキッチンへと足早に向かった。
* * * * *
白い湯気を立ち上らせたティーカップを二つ、トレイに乗せてイギリスはリビングへと戻る。
ロシアは暖炉の前で大きな体躯を丸めるようにして膝を抱え、大人しく座っていた。ちろちろと揺れる暖炉の火がその青白い肌を明るく染め上げているのに、一瞬そこにいるのが誰なのか分からないような気がしてイギリスは思いきり首を振った。
異質な雰囲気に流されるなど自分らしくない。どうかしている。
「ロシア、紅茶淹れてやったぞ」
声を掛けながらローテーブルに置いて移動するよう促すと、緩慢な動きでロシアは顔を向け、それからそろそろと体制を変えて静かに立ち上がった。
普段はイギリスと小さな友人たちしかいないこの部屋に、大柄な男一人がいるだけで妙な圧迫感がある。
「ありがとう、イギリス君」
ソファに座り直してロシアは目の前に置かれた琥珀色の液体をしばし見つめ、どこかまぶしそうに両目を眇めた。それから遠慮がちに手を伸ばして、まだ熱いそれを恐る恐る持ち上げる。その仕草は常の彼らしくない臆病な様子が見えて、イギリスは戸惑った。
これまでイギリスが目にして来たのは、遠慮を知らない傍若無人なロシアだ。「ありがとう」と彼が自分相手に礼を言う日が来るなど、これまで想像だにしなかった。
「ってお前その指!」
ふと、ロシアのカップを持つ指先が赤く腫れているのに気付いてイギリスは思わず声を上げた。
困惑した表情でロシアがこちらを窺うのを無視して、伸ばした手で紅茶を取り上げる。咄嗟の事に反論の言葉もない彼の、宙に浮いた指をそっと手のひらで受け止めるとイギリスは忌々しそうに舌打ちをした。
長い指先から手の内側にかけて一面焼けただれてしまっている。
「さっきの火傷か? なんで言わねーんだよ!」
「だって」
「あーもう水ぶくれになってんじゃねーか……こりゃ冷やしても無駄だな。油垂らさないと」
「ね、イギリス君」
「なんだよ、うっせーな!」
「紅茶、飲んでいい? ね、ね、いいかな?」
「手当が先だろ!」
呆れたように怒鳴るイギリスの顔を、下から見上げるロシアの顔には不安の色がありありと浮かんでいる。意外すぎる表情にたじろぐようにイギリスは仰け反り、息を呑む。
「せっかく淹れてくれたのに冷めちゃうよ」
「いや、でも」
場違いな遣り取りに逡巡していれば、ロシアは再びティーカップを手にするとそのまま口をつける。熱いそれをこくりと一口飲んでから、じっとさざ波の立つ水面に視線を落とした状態で動きが止まった。
「なんだよ」
「…………」
料理が下手なのは自他ともに認めているが、昔から紅茶だけは自信があるし、味にうるさいフランスにでさえ「美味しい」と言わせたことがあるのだ。まずいわけがない……と思いながらも、イギリスは眉を寄せて無言のロシアを見据える。
間近に寄っていたせいか伏せた睫がゆっくりと上下する様が見える。なんとなく色素の薄いそれを眺めていれば、ふっと彼の眼が上目遣いでこちらを捉えた。
唇が困惑気味に小さな笑みを浮かべる。
「ごめん、味、わかんないや」
「え?」
「香りも分からないし、駄目みたい」
言いながらロシアはカップを置いて自分の手を見つめた。暖炉の火によって傷つけられた指先は変色していると言うのに、なんでもないことのようにもう片方の手で感触を確かめている。
引きつれた皮膚からはじわりと血が滲み始めているというのに、何故。
「お前、それ」
「痛くないんだよね、ぜんぜん」
「…………」
「折角淹れてもらった紅茶も味がしないし、あーあ……つまんないの」
ロシアはふ、と小さく息をつくとソファに深く腰掛けて瞼を落とした。かさついた薄い唇が細い呼吸をゆるゆると吐き出していく。
若干疲労を帯びたその顔を見つめて、イギリスはこの家に彼が来た時から常に感じ続けていた違和感の正体にようやく気付いた。何かが違う、どこかがおかしい、ずっとそう感じていた気味の悪さは間違いない。
―――― 味覚と痛覚がないというのならば、もしかして。
すっと手のひらを動かないロシアの瞼の上に置く。ぼんやりと宙を彷徨うガラス玉のような、プラスチックのような、青紫の透明な目。閉ざされたその無機質な瞳には最初から光のようなものはなく、ここへ来て以来一度もイギリスの眼差しと合うことはなかったのだ。
「お前、見えていないんだな」
普段は鬱陶しいほど相手の一挙手一投足に気を使うこの男の、珍しいまでの無関心さが不気味だったのだ。
警戒心の強いロシアは、いつもならイギリスの動向に細心の注意を払う。そんな彼が目も合わせず、視線も向けずに他人と同じ空間にいるということ自体、普通ではない。けれど目が見えていないのならそれもまた仕方がないのだろう。
「本当は南の国に行きたかったんだ」
ロシアはイギリスの手を払いのけることもなく、独り言を呟くように言った。
「でも、途中でなんだかよく見えなくなってくるし、身体も重いし、こうなったら大嫌いなイギリス君に嫌がらせでもしなくちゃって思って、来たんだけど」
「相変わらず最悪な奴だな」
忌々しげに吐き捨てれば、ロシアの手がふいにイギリスの甲に触れ、続いてぎゅっと強い力で握りこんできた。驚いて咄嗟に手を引こうとしてもびくともしない。
ハッと息を呑んで離れようとしても無駄で、腕を思いきり引っ張られればイギリスの身体はあっという間にバランスを失ってソファに簡単に抑えつけられてしまう。肩を掴まれ太ももの上に体重を掛けられれば身動きは取れなかった。
相手が気弱な態度を取るから油断した、と後悔しても遅い。あまりの迂闊さに我ながら呆れ返りつつも、完全に自由を奪われた状態でイギリスは自分の上にのしかかるロシアを睨みつけた。
心なしか嘲るように口元が歪んでいるのが余計に腹が立つ。
「ふざけんな、どけ!」
「ねぇイギリス君。僕の家が壊れたのも僕がこんなにも苦しいのも、みんなみんな君とアメリカ君のせいだと思わない?」
「思わねーよ! 自業自得じゃねーか!!」
「そうなのかな? でもね、君が僕を嫌うように僕も君の事が大嫌いで、目ざわりで、消えてしまえばいいってずっとずっと思っていたんだよ」
「……っ」
ロシアの右手が喉に触れる。ひやりとした感触に目を見開いてなんとか身を捩って逃れようとしたが、身体は少しも動かせなかった。体格差もあるがもともとの腕力も違い過ぎる。このまま強い力で首を絞められればどうなることかと本能的な恐怖が脳裏をよぎった。
殺気は感じない。殺意は伝わっては来なかったが、この男の無邪気な側面に騙されてはならない。笑って銃を撃つことなど日常茶飯事なのだ。
「なんでいつも僕ばかり置いていかれるのかな」
「そんなこと、知るか」
「だって君が悪いんでしょ? イギリス君が僕から全部持って行っちゃうんだよね? この前だってそう、リトアニアをアメリカ君の家に連れて行ったのも君だったし、ポーランドを逃がしたのも君だったね。ねぇ、どうして? どうしてそんな酷いことするの? なんで僕から奪って行くの? ねぇ、どうして? どうしてなの?」
子供が駄々をこねるみたいに、ロシアは同じ言葉を繰り返しながらイギリスの首を絞めようとする。だが先ほど酷い火傷を負った指先はうまく曲がらず、思った以上に力も入らないようだった。
そのうちもどかしいような動きを見せていた彼の指が外されて、暗闇しか映し出さない目に静かに涙が溜まっていくのが見えた。透明であるがゆえに綺麗な、その色。
「……だいっきらい」
そうしてぽつりと落ちた涙はイギリスの頬を伝って流れた。冷たい氷を溶かしたような涙だった。
なんだか居たたまれない気分に陥る。こういうのは苦手だ。まるで幼子が声もなく泣いているような姿はかつての自分を思い出すようで吐き気がする。
どうしてこの男はこんな顔をするのだろう。急に何もかもを放り投げてしまったかのような、置き去りにされ途方に暮れたような顔をするなんて、卑怯だ。
「ロシア」
「みんなで一緒にいたかっただけなのに。ずっとずっとあったかい家族みたいに、一緒にいたかっただけなのに。君のせいで、君のせいで」
ぼたぼたと降り注いでくる涙はまるで雨のごとくイギリスを濡らし、その心の内側にまで入り込んでこようとする。哀しい、寂しい、切ないという感情が間近に感じられて正直息苦しい。
強すぎる想いは痛みとなって伝染し、そのうちしゃくりあげるような声と共に本格的に泣き出してしまったこの大きな子供の泣き声が、脳裏に響いてひどい頭痛となった。
手を差し伸べたくなる。
抱き締めたくなる。
背を撫でて宥めて、大丈夫だと声を掛けてあげたくなる。
けれど今ここにいるのは長い間敵対して来た、イギリスがどこよりも嫌悪する国であり、ロシアにとってもイギリスは憎むべき存在でしかない。
そんな自分がこの男を慰めるなど滑稽すぎる。どんな悪夢だろう、たちの悪い冗談でしかない。
ああでも、それでも。
『一人は嫌だよ、寂しいよ』
言葉が幾度となくリフレインする。
ロシアの声、そして自分の声。
世界の片隅で壊れ行くこの国の欠片が胸に突き刺さり、在りし日の己の姿に重なった。
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