紅茶をどうぞ
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[祭] 泣く (溢れた涙、伝う頬) 1
そこは暗い小さな部屋だった。
うずくまる影は小刻みにかたかたと震えていて、格子窓から差し込む月明かりに照らされひどく惨めに見える。
悪い子にはおしおきが必要だ。
そう言って閉じ込められれば、逃げることも叶わずただひたすら赦しを乞う日々が続く。寒さをしのぐのに一枚の毛布だけがあてがわれ、首には鎖が巻きつけられ、与えられる食事は一日一度の硬い黒いパンと濁った水だけ。
寒いのも雪が降るのも凍えるのも、全部全部お前が悪い。
お前のせいだと言われてしまった。
だからこうやって閉じ込められて殴られて蹴られて、暗くて冷たい部屋でたった一人、風の音に怯えて過ごさなくちゃいけないんだ。
そう、僕は悪い子だから。
みんなみんな餓えて凍えて死んでしまうから。
暖かければきっと人々は楽しげに笑って歌を歌って、陽気に踊りだすのだろう。でもここは指先まで凍ってしまうほど寒くて、息をするのも苦しくて、笑ったり歌ったり踊ったり、誰もそんなことはしないし出来ない。
ただ、小さな固いパンの欠片を強いアルコールで流し込んで、どろどろになった頭にひまわりの夢を描いて道端に倒れて眠りにつくんだ。
そうすると天国に行けるらしいよ?
天国ってどんなところなのかな。そこに行ったら暖かくて柔らかい毛布にくるまれて、オレンジ色の光に包まれて、みんなで楽しく笑うことが出来るのかな。
あぁ、ほら今日もまた冬将軍がやってくる。
そうして冷たい雪がいっぱい降ると、みんなが僕を叩くんだ。
お前が呼んでいるんだろうって、なんどもなんども殴るんだ。
僕だってね、彼は冷たくて寒いから来てほしくないし会いたくもない。でももうずっと長いこと彼は僕の傍にいて、僕が生まれた時から隣にいるから、どうしようもないんだよ。
今日もまた、目がさめればここはやっぱり暗い部屋。
いつになったら僕は外の世界へと出て行けるんだろう?
その日、出先から帰って来たイギリスの家の玄関先には、白い大きなかたまりが置いてあった。
雪が降っていたのでてっきり誰かがいたずらで作りかけの雪だるまを放置していったのかと、最初はそう思った。けれどそれは違っていて、歩み寄ればその不可思議な物体はどうやら人の形をしていることが分かって驚いた。
浮浪者だろうかと、まっさきにそう思ったがそれもまた間違いで、雪に足音を吸い込ませながら近付いて見れば、まず一番に目に付いたのは長いマフラーが地面を這っている姿だった。そして雪を積もらせた厚手のコートと、薄い金色の頭。
うずくまって膝をかかえて顔を伏せているそれは、イギリスがこの世の中で何よりも見たくない男だった。
ほとんど無意識に懐に手が伸びる。基本的にこの国では銃の携帯は禁止されているが、立場上万が一に備えて小型の物を携えるのは昔から身についた癖のようなものだ。
気配を消して歩み寄る。だが獣のような鋭敏さを持つ相手にはまるで効かなかったようで、白い塊はのろのろと顔を上げて氷のように冷たい目を向けて来た。瞬間、ためらわず寸分の狂いなくその眉間に銃口を定めると撃鉄を起こしてトリガーに指を掛ける。
きつく睨みつけていれば、ロシアの厚ぼったい瞼がゆっくりと開閉を繰り返したのち、色を無くした薄い唇がかすかな弧を描いた。
「会いたくなっちゃった」
「はぁ?」
「会いたくなっちゃったんだよ、君に」
そう言って北の大国は雪にうずもれたまま、のそりと大型動物のような動作で態勢を変えた。玄関の真っ白な石畳に腰をおろしたままイギリスを見上げるその瞳には、これまで彼を支配し続けていた狂気の色と血の匂いはない。あるのは透明であるがゆえに底の見えない深い昏さだけだった。
「こんなところにいていいのか」
小銃を構えたまま鬱陶しそうに問いかければ、ロシアは「そうだね、ちょっとまずいかも」と呟いて唇を歪める。
『ソビエト連邦』という名の巨大な国が崩壊したのはつい先日のこと。その中核であり支配者であったロシアが革命の火に焼かれてのち、行方知れずになっていたことは一部の情報筋によってイギリスにももたらされていた。国内情勢が乱れている今、かたくなに秘密主義をとって来たソ連も情報の漏洩はいちぢるしい。もちろんイギリスのスパイの優秀さも世界に類を見ないだろう。だからこそ「国から『国』がいなくなった」という最重要機密を入手出来たと言っても過言ではない。
だが、そんなイギリスといえども当のロシアがどこにいるのかは掴めずにいた。アメリカをはじめ各国に密かな捜索網が敷かれていたのだが、まったく足取りが得られずにいたのだ。それがまさかこんな形で見つかるとは思ってもみないことである。
むしろこの混乱の続く情勢下において、本当に本国にいなかったことの方が驚きだ。
「何の用だ」
政治も経済も根本から崩されてしまった今、中核である『国』がそう簡単に出歩けるものではない。世界恐慌が起きた時はイギリスも酷い風邪をひいて熱を出し、文字通りひっくり返ったこともあるくらいなのだ。今のロシアはその時の西欧事情よりも酷い状態と言える。国内が落ち着くまでは大人しく引き籠っていればいいものを、わざわざ行方をくらますなど他国に対しても迷惑かつ不穏極まりない。
イギリスは眉をひそめたまま不機嫌さを隠しもしないで地面を蹴りつけた。ぱっと粉雪が舞う。
「こっちはてめぇの顔なんか見たくもねーんだよ。なんなら眉間を撃ち抜いてやろうか?」
「あはは、相変わらず物騒だなぁイギリス君は」
かすれた声で笑うとロシアは丸めていた背中をそろりと伸ばして、ゆっくりと背後の木製の扉に背を預けた。そのまままっすぐイギリスの顔を見上げる。
吐く息はかろうじて白いが体温の低さゆえかほとんど認めることは出来ない。それが異様に不気味に映った。
玄関先を占領されているイギリスは寒空の下、家に入ることも出来ずに銃を構える手を上げたまま身動き一つしない。隙を見せたら最後、どんな事態を引き起こすか分かったものではなかった。
「もう全部嫌だなぁ、どうにでもなっちゃえって、そう思ったら急に君の顔が見たくなっちゃったんだよね」
「刺し違える気か?」
「ううん。そうじゃなくて……どうしてかなぁ、不思議なんだよね。身体中痛くて、苦しくて、つらくて、哀しくて、ぐちゃぐちゃなのに、ふっと思ったんだよ。あぁ、ずーっと前に飲んだイギリス君の紅茶は美味しかったなぁって。味なんて正直ぜんぜん覚えてないのにね、すごくすごく紅茶が飲みたくなっちゃったんだ。君のことなんて大っ嫌いでしょうがないのに、おかしいよねぇ」
小さな笑い声と共にロシアの両目が閉ざされる。肩が思った以上に大きく上下しているのは、普段ほとんど呼吸を相手に悟られないこの男らしからぬ様相だ。
自身に照らし合わせてみれば今この場にいるロシアの体調が最低なのは分かっている。恐らく立ち上がるのも辛いに違いないはずなのだが、だからと言ってイギリスは緊張を解く事は出来なかった。
これまでのことを考えればロシア相手にそう易々と警戒を緩めることは出来ない。それに手負いの獣ほど恐ろしいものはないということを、イギリスは本能として良く知っていた。
油断したが最後、足元をすくわれかねない。
「とにかくお前のところの上司に連絡入れろ。探しているぞ」
「ね、イギリス君。紅茶を一杯くれないかな。あんまりお金は持ってないんだけど……」
こちらの言葉は無視をして、ロシアはごそごそと手袋に包まれた手をコートのポケットに入れた。一瞬武器を取り出すのではないかとイギリスが息をつめれば、彼は緩慢な動きでコインを数枚、手のひらに乗せて差し出してきた。国外に持ち出すことのほとんどないルーブル硬貨はイギリスといえどもあまり目にしたことがないものだ。
「あ、ごめん。ポンドは持ってないんだ」
「ここは喫茶店じゃねーよ」
「だって僕はイギリス君が淹れた紅茶が飲みたいんだもん。ね、駄目かな」
ロシアの瞼が細く開けば眼差しがゆるくまどろむように潤んだ。眠たげなそれは恐らく熱に浮かされているためだろう。
ぽす、とコインが雪の上に落ちる。薄ぼんやりとした明りが鈍く反射してイギリスは眉を寄せて目を眇めた。続いて身体に見合った大きな手が力なく落とされ首がかくんとうなだれると、肩を竦めて溜息をついてしまう。これはなんという厄介な状況だろうか。
「おい、こんなところで寝るな」
「うん」
「さっさとそこをどけ」
「……おねがい」
小さな声が縋るように漏れた。ぽつりと呟かれたその言葉はイギリスの目を大きく見開かせるには充分だった。意外どころの話ではない、本気で驚いてしまう。
あのロシアが自分に何事かを頼み込むのも珍しく、ましてやこのような状況下では考えられなことだった。まさか他国に弱みを見せるような真似をこの男がするとは。
「ロシア」
「なんでも言うこと聞く、から。お金はこれしかないから、他に……欲しいものあったら、あげる。でも僕にはもう何もないよ、なんにもない。でも紅茶が欲しいな、あったかい紅茶……」
喉が嗄れているせいか徐々に聞き取りづらくなる言葉の端に、隠しきれない震えが混じっている。時折咳き込むように小さく軋んだ音が鳴るが、口元まで覆うマフラーのせいでそれはあまり分からなかった。
イギリスは怪訝な顔をすると銃を持つ手をそのままに、そっと一歩を踏み出した。そろそろと近寄っていけば、ロシアの身体に降り積もった雪の結晶が細い髪を濡らして雫となっているのが見える。
一体何時間前からここにいたのだろうか。
ち、と舌打ちをするとイギリスは銃に安全装置をかけ懐にしまった。同時に皮手袋を外して腰をかがめ、俯く白い顔に静かに手を伸ばす。
柔らかな肌はしかし、触れるとぞっとするほどの冷たさが伝わって来た。急に近付いた気配にロシアの顔が再び上がり、長いまつ毛が重たげに揺れて目が開く。戸惑うようなその視線にイギリスは忌々しそうに言った。
「よりにもよってどうして俺なんだ? 俺以外にも美味い紅茶を入れる国は他にもあるだろ。お前んちの近くなら日本だってそうだ」
「君のこと、大嫌いだから」
「はぁ? なんだそれ」
「だってほら、怒ってる。嫌がらせには、いいでしょ?」
血の気のない顔でくすくすと笑って、ロシアは差し伸べられた手にそっと自らの手を重ねた。手袋のざらりとした感触に慌てて引っ込めようとするイギリスだったが、まるで猫のような仕草で頬をすり寄せる彼に硬直してしまう。
ロシアは他人の体温に安心したのか表情を和らげて、ほっと息を漏らした。冷えた呼気が手首に当たり背筋に悪寒が走る。
これは放っておくと後でとんでもないことになりそうだった。
「……ロシア」
「なぁに?」
「この貸しは倍にして返してもらうぞ」
放置してここでこのまま凍死体になられても困る。しかるべきところへ連絡がつくまでは、あくまでも『国』として他国を監視するのも自分の務めだ。
この国へ来た以上、そして戦争中でない以上、ロシアは非公式ながらもイギリスの客人であることに間違いはない。たとえそれが一方的なものであろうとも、だ。
そうやって自分の中で結論付ければ、当のロシアはきょとんと子供のような顔をしてこちらを見上げて、それから強張った唇を綻ばせてふんわりと笑みを浮かべる。
透き通るくらい綺麗なそれは、不思議なことに真冬に咲く小さな花のように見えた。
うずくまる影は小刻みにかたかたと震えていて、格子窓から差し込む月明かりに照らされひどく惨めに見える。
悪い子にはおしおきが必要だ。
そう言って閉じ込められれば、逃げることも叶わずただひたすら赦しを乞う日々が続く。寒さをしのぐのに一枚の毛布だけがあてがわれ、首には鎖が巻きつけられ、与えられる食事は一日一度の硬い黒いパンと濁った水だけ。
寒いのも雪が降るのも凍えるのも、全部全部お前が悪い。
お前のせいだと言われてしまった。
だからこうやって閉じ込められて殴られて蹴られて、暗くて冷たい部屋でたった一人、風の音に怯えて過ごさなくちゃいけないんだ。
そう、僕は悪い子だから。
みんなみんな餓えて凍えて死んでしまうから。
暖かければきっと人々は楽しげに笑って歌を歌って、陽気に踊りだすのだろう。でもここは指先まで凍ってしまうほど寒くて、息をするのも苦しくて、笑ったり歌ったり踊ったり、誰もそんなことはしないし出来ない。
ただ、小さな固いパンの欠片を強いアルコールで流し込んで、どろどろになった頭にひまわりの夢を描いて道端に倒れて眠りにつくんだ。
そうすると天国に行けるらしいよ?
天国ってどんなところなのかな。そこに行ったら暖かくて柔らかい毛布にくるまれて、オレンジ色の光に包まれて、みんなで楽しく笑うことが出来るのかな。
あぁ、ほら今日もまた冬将軍がやってくる。
そうして冷たい雪がいっぱい降ると、みんなが僕を叩くんだ。
お前が呼んでいるんだろうって、なんどもなんども殴るんだ。
僕だってね、彼は冷たくて寒いから来てほしくないし会いたくもない。でももうずっと長いこと彼は僕の傍にいて、僕が生まれた時から隣にいるから、どうしようもないんだよ。
今日もまた、目がさめればここはやっぱり暗い部屋。
いつになったら僕は外の世界へと出て行けるんだろう?
* * * * * * * * * * * * * * *
その日、出先から帰って来たイギリスの家の玄関先には、白い大きなかたまりが置いてあった。
雪が降っていたのでてっきり誰かがいたずらで作りかけの雪だるまを放置していったのかと、最初はそう思った。けれどそれは違っていて、歩み寄ればその不可思議な物体はどうやら人の形をしていることが分かって驚いた。
浮浪者だろうかと、まっさきにそう思ったがそれもまた間違いで、雪に足音を吸い込ませながら近付いて見れば、まず一番に目に付いたのは長いマフラーが地面を這っている姿だった。そして雪を積もらせた厚手のコートと、薄い金色の頭。
うずくまって膝をかかえて顔を伏せているそれは、イギリスがこの世の中で何よりも見たくない男だった。
ほとんど無意識に懐に手が伸びる。基本的にこの国では銃の携帯は禁止されているが、立場上万が一に備えて小型の物を携えるのは昔から身についた癖のようなものだ。
気配を消して歩み寄る。だが獣のような鋭敏さを持つ相手にはまるで効かなかったようで、白い塊はのろのろと顔を上げて氷のように冷たい目を向けて来た。瞬間、ためらわず寸分の狂いなくその眉間に銃口を定めると撃鉄を起こしてトリガーに指を掛ける。
きつく睨みつけていれば、ロシアの厚ぼったい瞼がゆっくりと開閉を繰り返したのち、色を無くした薄い唇がかすかな弧を描いた。
「会いたくなっちゃった」
「はぁ?」
「会いたくなっちゃったんだよ、君に」
そう言って北の大国は雪にうずもれたまま、のそりと大型動物のような動作で態勢を変えた。玄関の真っ白な石畳に腰をおろしたままイギリスを見上げるその瞳には、これまで彼を支配し続けていた狂気の色と血の匂いはない。あるのは透明であるがゆえに底の見えない深い昏さだけだった。
「こんなところにいていいのか」
小銃を構えたまま鬱陶しそうに問いかければ、ロシアは「そうだね、ちょっとまずいかも」と呟いて唇を歪める。
『ソビエト連邦』という名の巨大な国が崩壊したのはつい先日のこと。その中核であり支配者であったロシアが革命の火に焼かれてのち、行方知れずになっていたことは一部の情報筋によってイギリスにももたらされていた。国内情勢が乱れている今、かたくなに秘密主義をとって来たソ連も情報の漏洩はいちぢるしい。もちろんイギリスのスパイの優秀さも世界に類を見ないだろう。だからこそ「国から『国』がいなくなった」という最重要機密を入手出来たと言っても過言ではない。
だが、そんなイギリスといえども当のロシアがどこにいるのかは掴めずにいた。アメリカをはじめ各国に密かな捜索網が敷かれていたのだが、まったく足取りが得られずにいたのだ。それがまさかこんな形で見つかるとは思ってもみないことである。
むしろこの混乱の続く情勢下において、本当に本国にいなかったことの方が驚きだ。
「何の用だ」
政治も経済も根本から崩されてしまった今、中核である『国』がそう簡単に出歩けるものではない。世界恐慌が起きた時はイギリスも酷い風邪をひいて熱を出し、文字通りひっくり返ったこともあるくらいなのだ。今のロシアはその時の西欧事情よりも酷い状態と言える。国内が落ち着くまでは大人しく引き籠っていればいいものを、わざわざ行方をくらますなど他国に対しても迷惑かつ不穏極まりない。
イギリスは眉をひそめたまま不機嫌さを隠しもしないで地面を蹴りつけた。ぱっと粉雪が舞う。
「こっちはてめぇの顔なんか見たくもねーんだよ。なんなら眉間を撃ち抜いてやろうか?」
「あはは、相変わらず物騒だなぁイギリス君は」
かすれた声で笑うとロシアは丸めていた背中をそろりと伸ばして、ゆっくりと背後の木製の扉に背を預けた。そのまままっすぐイギリスの顔を見上げる。
吐く息はかろうじて白いが体温の低さゆえかほとんど認めることは出来ない。それが異様に不気味に映った。
玄関先を占領されているイギリスは寒空の下、家に入ることも出来ずに銃を構える手を上げたまま身動き一つしない。隙を見せたら最後、どんな事態を引き起こすか分かったものではなかった。
「もう全部嫌だなぁ、どうにでもなっちゃえって、そう思ったら急に君の顔が見たくなっちゃったんだよね」
「刺し違える気か?」
「ううん。そうじゃなくて……どうしてかなぁ、不思議なんだよね。身体中痛くて、苦しくて、つらくて、哀しくて、ぐちゃぐちゃなのに、ふっと思ったんだよ。あぁ、ずーっと前に飲んだイギリス君の紅茶は美味しかったなぁって。味なんて正直ぜんぜん覚えてないのにね、すごくすごく紅茶が飲みたくなっちゃったんだ。君のことなんて大っ嫌いでしょうがないのに、おかしいよねぇ」
小さな笑い声と共にロシアの両目が閉ざされる。肩が思った以上に大きく上下しているのは、普段ほとんど呼吸を相手に悟られないこの男らしからぬ様相だ。
自身に照らし合わせてみれば今この場にいるロシアの体調が最低なのは分かっている。恐らく立ち上がるのも辛いに違いないはずなのだが、だからと言ってイギリスは緊張を解く事は出来なかった。
これまでのことを考えればロシア相手にそう易々と警戒を緩めることは出来ない。それに手負いの獣ほど恐ろしいものはないということを、イギリスは本能として良く知っていた。
油断したが最後、足元をすくわれかねない。
「とにかくお前のところの上司に連絡入れろ。探しているぞ」
「ね、イギリス君。紅茶を一杯くれないかな。あんまりお金は持ってないんだけど……」
こちらの言葉は無視をして、ロシアはごそごそと手袋に包まれた手をコートのポケットに入れた。一瞬武器を取り出すのではないかとイギリスが息をつめれば、彼は緩慢な動きでコインを数枚、手のひらに乗せて差し出してきた。国外に持ち出すことのほとんどないルーブル硬貨はイギリスといえどもあまり目にしたことがないものだ。
「あ、ごめん。ポンドは持ってないんだ」
「ここは喫茶店じゃねーよ」
「だって僕はイギリス君が淹れた紅茶が飲みたいんだもん。ね、駄目かな」
ロシアの瞼が細く開けば眼差しがゆるくまどろむように潤んだ。眠たげなそれは恐らく熱に浮かされているためだろう。
ぽす、とコインが雪の上に落ちる。薄ぼんやりとした明りが鈍く反射してイギリスは眉を寄せて目を眇めた。続いて身体に見合った大きな手が力なく落とされ首がかくんとうなだれると、肩を竦めて溜息をついてしまう。これはなんという厄介な状況だろうか。
「おい、こんなところで寝るな」
「うん」
「さっさとそこをどけ」
「……おねがい」
小さな声が縋るように漏れた。ぽつりと呟かれたその言葉はイギリスの目を大きく見開かせるには充分だった。意外どころの話ではない、本気で驚いてしまう。
あのロシアが自分に何事かを頼み込むのも珍しく、ましてやこのような状況下では考えられなことだった。まさか他国に弱みを見せるような真似をこの男がするとは。
「ロシア」
「なんでも言うこと聞く、から。お金はこれしかないから、他に……欲しいものあったら、あげる。でも僕にはもう何もないよ、なんにもない。でも紅茶が欲しいな、あったかい紅茶……」
喉が嗄れているせいか徐々に聞き取りづらくなる言葉の端に、隠しきれない震えが混じっている。時折咳き込むように小さく軋んだ音が鳴るが、口元まで覆うマフラーのせいでそれはあまり分からなかった。
イギリスは怪訝な顔をすると銃を持つ手をそのままに、そっと一歩を踏み出した。そろそろと近寄っていけば、ロシアの身体に降り積もった雪の結晶が細い髪を濡らして雫となっているのが見える。
一体何時間前からここにいたのだろうか。
ち、と舌打ちをするとイギリスは銃に安全装置をかけ懐にしまった。同時に皮手袋を外して腰をかがめ、俯く白い顔に静かに手を伸ばす。
柔らかな肌はしかし、触れるとぞっとするほどの冷たさが伝わって来た。急に近付いた気配にロシアの顔が再び上がり、長いまつ毛が重たげに揺れて目が開く。戸惑うようなその視線にイギリスは忌々しそうに言った。
「よりにもよってどうして俺なんだ? 俺以外にも美味い紅茶を入れる国は他にもあるだろ。お前んちの近くなら日本だってそうだ」
「君のこと、大嫌いだから」
「はぁ? なんだそれ」
「だってほら、怒ってる。嫌がらせには、いいでしょ?」
血の気のない顔でくすくすと笑って、ロシアは差し伸べられた手にそっと自らの手を重ねた。手袋のざらりとした感触に慌てて引っ込めようとするイギリスだったが、まるで猫のような仕草で頬をすり寄せる彼に硬直してしまう。
ロシアは他人の体温に安心したのか表情を和らげて、ほっと息を漏らした。冷えた呼気が手首に当たり背筋に悪寒が走る。
これは放っておくと後でとんでもないことになりそうだった。
「……ロシア」
「なぁに?」
「この貸しは倍にして返してもらうぞ」
放置してここでこのまま凍死体になられても困る。しかるべきところへ連絡がつくまでは、あくまでも『国』として他国を監視するのも自分の務めだ。
この国へ来た以上、そして戦争中でない以上、ロシアは非公式ながらもイギリスの客人であることに間違いはない。たとえそれが一方的なものであろうとも、だ。
そうやって自分の中で結論付ければ、当のロシアはきょとんと子供のような顔をしてこちらを見上げて、それから強張った唇を綻ばせてふんわりと笑みを浮かべる。
透き通るくらい綺麗なそれは、不思議なことに真冬に咲く小さな花のように見えた。
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